小説

『幻影団地』実川栄一郎(『むじな』『のっぺらぼう』)

 特別に裕福というわけではない、ごく普通のサラリーマンの家庭だった。父が出張でいない間、母と私たち兄妹の食卓は、むしろ一般の家庭よりつつましかったと思う。だが、父が家にいるときは、母は腕によりをかけてご馳走を作ってくれた。あのベーコンエッグだけではない。母の作る料理は何でもおいしかった。
 おおらかで頼もしい父と、優しくて料理上手な母。そんな両親にいだかれ、家族4人で暮らしていたあのころが、私の人生で、いちばん穏やかで心地よい時期だった。
 私と妹が成人して独立し、父が定年を迎えて仕事を辞めたあとは、父と母は旅行に出かけたりして楽しんでいたが、母が病気で亡くなると、父は急に衰えてしまった。父の言動に認知症の症状が見られるようになったのは、母が亡くなってまだ2年も経たないころだった。
 カナダで日本人相手の観光ガイドをしている妹は、まだ独り身で、めったに日本に帰ってこない。もう何年も会っていない妹のことを、認知症の父は果たして憶えているだろうか?
 私が真顔で掛け算九九を暗誦するのを聞きながら、父は満足そうな表情でうなずいていた。

 私は、夜になってもう一度あの団地に行ってみることにした。住人たちの話だけでは、おもしろい記事は書けそうになかったし、幽霊が出るという夜に現場に行ってみれば、幽霊を目撃することはできなくても、何か適当なでっち上げ記事の材料が見つかるような気がしたのである。
 その日は、しばらく張り込むつもりだったので、クルマを使うことにした。夜10時過ぎ、団地に着いた私は、まず、幽霊が出たという3つの空き室のうち、団地の入り口にいちばん近い2号棟の105号室へ行くことにした。この部屋では、女の幽霊の目撃証言があるから、何かおもしろい現象を体験できるかもしれない。
 私は、105号室の近くの道路に車を停めて、ドアの辺りを窺っていたが、部屋は真っ暗で、特に変わった様子はなかった。30分ほど経っても何も起こらないので、私は3号棟へ行ってみることにした。
 3号棟は少し奥まった所にあり、近くにクルマを停める場所がないので、私は、クルマを降りて歩いていった。
 辺りはシーンと静まりかえっていた。団地内の建物は、半分ほどの窓が暗くなっている。まさか灯りの消えている部屋のすべてが空き室ということではあるまい。おそらく、一人暮らしのお年寄りの中には、もう寝てしまった人もいるのだろう。
 キーンと耳に響くような寒さで、吐く息が真っ白だった。何げなく頭上を見あげると、鎌の刃のような三日月が青白く光っていて、その冷たい輝きに私はゾクッと身震いした。夜の寒さに備えて厚着はしてきたが、あいにく手袋を忘れてしまい、指先がひどく冷たかった。
 

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