小説

『幻影団地』実川栄一郎(『むじな』『のっぺらぼう』)

 まさか。ムジナに化かされたとでもいうのか。見まちがいではないのか。きっと大きなマスクでもしていて、顔の大半が隠れていたから、のっぺらぼうのように見えたのではないか。私はとっさにそう思ったが、話をした女性があまりに真剣な表情をしているので、何も言えなくなった。
「まったく、不思議なことがあるものですな……」と、自治会長がつぶやくように言い、ほかの住人たちは、うなずきながら黙りこんでしまった。
 私は自治会長に尋ねた。
「さきほど、子どもの声が聞こえたという話がでましたが、この団地には、子どものいる家族はどのくらい住んでいるのですか?」 
「いまは、ほとんどいませんね。住人の大半は、高齢者の夫婦か、一人暮らしか、そのどっちかですよ」
 団地の広場といえば、むかしは子どもたちの恰好の遊び場だった。学校から帰って広場に行くと、必ず誰かが遊んでいた。団地に住む子どもたちだけでなく、団地の近くからも大ぜい集ってきて、いっしょに遊んだものだ。鬼ごっこ、野球、ドッジボール、陣取り……。私たちは、遊びにも遊び仲間にも事欠くことはなかった。
「そう、むかしはね、ほとんどの世帯が子どものいる家庭でした。この広場にみんなで集まって、正月は餅つき大会、春はお花見、夏は盆踊り大会、そして秋には運動会もやりました。ああ、それと旅行会もやっていたな。大きな観光バスを3台も4台も連ねてね、みんなで行きましたよ……。でも、それがいつのまにか、こんなふうになってしまった……」
寂しそうな声で自治会長が言った。
 そのとき、女の幽霊を見たという女性が小さな声をあげた。
「あら、またなの、いやだわ……」
 女性の視線の先に目をやると、広場に面した棟から、白い布で覆われた担架が運びだされてきた。
「何かあったんですか?」
 私が尋ねると、女性は沈んだ声で言った。
「きっと、また誰か、一人暮らしのお年寄りが亡くなったんだわ……。こんなこと、しょっちゅうよ」
 遺体を乗せた担架は、建物の陰に停められた救急車の方へ運ばれていった。
 

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