小説

『幻影団地』実川栄一郎(『むじな』『のっぺらぼう』)

――おい、聡志、陽子、2人とも宿題は終わったのか? よし、じゃあ、いっしょに風呂に入るか?
――はーい。お兄ちゃん、はやく、はやく。
 父は、いつも会社から帰ってくると、私たちといっしょに風呂に入り、その日の出来事を私たちから聞くのを楽しみにしていた。
――聡志も陽子も学校はおもしろいか?
――うん、おもしろいよ。私ね、きょう音楽の時間にね、歌が上手だって先生に褒められたんだよ。
――そうか。じゃあ陽子、パパに聞かせてくれ。
 妹は嬉々として、その日の音楽の授業で習ってきた〈きらきらぼし〉を歌って聞かせた。
――おお、上手だな。また新しい歌を覚えたら、パパに聞かせてくれよ。そうだ、聡志は、このまえから掛け算九九を習っていたな。どうだ、できるようになったか?
――うん、全部覚えたよ。
――そうか。それならパパに聞かせてくれ。
 私は、覚えたばかりの九九を、つっかえながら最後まで暗唱した。
――よーし、よく覚えたな。えらいぞ。さあ、2人とも、最後に湯船に入って50数えるんだ、いいな。
 風呂から出ると、何よりも楽しみな夕食が待っていた。トロトロに煮込まれた大きな牛肉のかたまりと、ジャガイモとニンジン。母の作るビーフシチューは最高だ。私は2回もお代わりをした。
 食事が終わると、みんなで炬燵に入り、ミカンを食べながらテレビで歌番組を見た。あのころ流行っていた歌謡曲だった。その曲を歌う女性歌手に、まだ幼かった私は、ほのかな憧憬を抱いていたのだ。あれが初恋だったのかもしれない。
 女性歌手の声が耳に心地よかった。だが、しばらくすると、その歌声は次第に小さくなっていき、それと同時に父母や妹の顔がぼやけてきた。
 待ってくれ、もう少しこのままでいさせてくれ……。
 ふと気がつくと、私は202号室のドアの前の通路に立っていた。腕時計に目をやると、針は午前3時を指していた。
 たしか、私がこの部屋の前に来たのは、午後11時まえだった。ということは、私は4時間以上この部屋の中にいたということか?
 台所の窓は真っ暗だった。私はドアノブに手をかけてみた。しかし、ドアには鍵がかかっていて、もうノブを回すことはできなかった。
 いったいどういうことだ? 私をこの部屋の中に招き入れたのは、やはり幽霊だったのか? 部屋の中で起こったことは、すべて私の幻覚だったのか? まさか、そんなはずはない。もし幻覚だとしたら、私は4時間以上もの間ここに突っ立っていたことになる。だが、私の体は、まったく冷えていなかった。それどころか、ほかほかと温まっていて、満腹感すら感じていたのだ。
 

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