小説

『罪深い作家たち』楠本龍一(『不思議の国のアリス』)

「ちょっと、そんな長くて訳のわからない巻物を読むのは後にして、少しでいいから話をさせてよ。この建物から出ていく道が知りたいの。審査がダメだったのはお気の毒だけど、本当に困っているのよ」
私は大声で遠くのドクトルに呼びかけたが、ドクトルは巻物の文章を必死の表情で食い入るように目で追いながら、さらに遠ざかっていく。追いかけないと。私は広げられた巻物の脇を駆け出した。でもどうしてなの? ドクトルが巻物を広げるスピードはどんどん速く、文を読み上げる口調もどんどん速くなり、ただ走っているだけの私がどういうわけか引き離されていく。そして遂にドクトルはホールの先の闇に融けて見えなくなった。後にはどこまでも伸びた巻物による一本の白い道が残されている。それでもドクトルが巻物を読み上げる声だけが壁や天井に反響して低くくぐもって、いつまでも聞こえてきていた。「どうしよう」
ドクトルの低く、内容が聞き取れないぶつぶつ声の反響に包まれて私は立ち尽くした。
「今のところ唯一のこの場所での知り合いがいなくなっちゃったわ。もっとも知り合ったのはついさっきだったけど」その時だった。走って肩で息をしている私のその肩越しに、大きな声が響いてきた。
「アンナ・K! 」
私の名前だ! びくっとしてつい
「はい! 」
と返事をして振り返ったけど、誰も居ない。シーンと静まりかえったホールには相変わらず遥か彼方のドクトルの声が響いている。
「私を呼んだのはどなた? 」
無人のホールに向かって呼びかけるが返事はない。でもあの声聞き覚えがあるなあ。ちょっと記憶を辿るとすぐに目的のものに行き当たった。そうだ
「ドクトル・アプサントを呼び出した声だわ」
そうなると、私が後にして走ってきた2脚の椅子が置いてある、向いの扉から声がした可能性が高いわね。私は元来た道を戻って扉の前までやって来た。
「ノックは一応した方がいいかしら」
固いオーク材の扉をコツコツノックしたけれど特に返事がない。
 

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