小説

『死にたがりの人魚姫』東村佳人(『人魚姫』)

 次の日も、その次の日も私は岩場の陰から浜辺を見張っては、打ち寄せる波に合わせて口笛を吹いた。何度も、何度も、何度も、何度も。海の世界は別に恋しくはなかった。嫌いになったわけではないけれど、今この心地いい景色を捨てて、見なれた下の世界に戻ろうとは思えない。姉さん達を含めて人魚の皆は、地上は穢れている、なんて言うけど、私には全てが新鮮で、全てが綺麗で、まだ家に帰ることを考えたくはない。
 脚の痛みにも少しは慣れた。触ったくらいじゃ、もう全然痛まない。でも――意を決して――立ってみようとしたら、砂浜の上に無様に転がってしまった。まだ重力を脚だけで支えることはできずに、皮の剥けた手を棘の山に押し付ける、そんな熱い激痛が脚先から頭のてっぺんまで一直線に貫く。浜に流れ着いた――昔本で読んだ通り、海に長い間流れて角が取れて丸く滑らかになった――木で支えながら立ちあがる練習をしていた時、あの人が来た。私が助けた男の人が。彼は私の姿を見ると大慌てで城に戻って、でもまたすぐに浜辺に帰って来た、両手に箱を持って。それは死んだ人を入れる大きなものじゃなくて、その四分の一くらいで、中には彼が来ているような服がたくさん入っていた。確かに今の私は彼が身に着けている立派な服に比べて、みすぼらしく脚を隠すだけの布切れしか持っていなかった。彼は恥ずかしそうに私と箱の中身をちらちらと交互に見ながら、適当に見繕ったいくつかを、突き出すみたいに――半ば強引に――私に押し付けた。
 それじゃあ寒そうだし、女性がそんな格好をするものじゃない、って彼は言ったけれど、私は元人魚。服なんて着たことはない。貝殻や珊瑚、真珠や人間が落とした宝石で髪を飾ったりはするけど、それ以外は初めての経験。彼は何も言わない――言えない私の頭から大きい布を被せて、それぞれの穴から頭と両手を出させた。腰から下も、ホヤみたいにふわりと覆って、でもクラゲの傘と同じくらい軽やかだった。
ありがとう、と言えない代わりに私は口角をはっきりと上げて、頭を下げた――そうすることが人間のお礼だ、って本に書いてあったから。

 その次の日、私が貰った服を着て、口笛を吹いていると彼がまたやって来た。色んなことを話しかけてくれるけど、私は言葉を返せない。だって、魔女と交換したから。それなのに彼は私に一生懸命話しかけて、私は頷いて微笑んで、そうやって会話した。気が付けば既に人間になってから十回も、朝と夜とを繰り返していた。
 

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