小説

『死にたがりの人魚姫』東村佳人(『人魚姫』)

 気が付けばリーフの中にいた。海水は暖かく、私が普段生活している場所では見ないような小さな魚が口々に歌いながら泳いでいる。陽も高く、確かにここで泳げば気持ちいいと思う。ガンガゼの白い目が私を見つめ、私がそれに微笑み返すと恥ずかしそうにトゲで目を隠してしまった。ミノカサゴが立派な背ビレと腹ビレを振って泳ぎ、ヘラヤガラは珊瑚の影から物珍しそうに私を睨む。その時、一匹のチョウチョウウオが私の手に握られた小瓶に気付いて耳元で叫んだ。ダメだよ、ダメだよ、早く捨ててって。その声に反応して他の魚達も私の周りに集まって、果てには無理矢理取ろうとさえして来た。
 私は追い払って、魚達の制止も無視して顔を水面から揚げた。容赦のない太陽が水に遮られることなく肌に照りつけ、余りの痛みにすぐ海中に戻ってしまった。ダメだよ、ここで暮らそう、と魚達はしつこく私に言い続ける。でも、私が小瓶の蓋を開けた瞬間、皆悲鳴をあげて逃げていった。広い、美しいリーフに独りきり。
 生唾を飲み込んで、その気持ちの悪い液体を飲みほした。途端に体が熱くなって、息が苦しくなって、私はまた意識を失った。
 目が覚めると、月が覗く浜辺に横たわっていた。自分が何処にいるのか判然としなかった。海の中よりも寒くて、でも手を動かすのはずっと楽だった。ぼんやりとした視界の中、ヒレが強烈に痛んだ。まるで割れた貝殻で強く引っ掻き回されるような、優しさの欠片もない痛みが。でもそこにヒレはなかった。腰から伸びるのは、今まで見慣れた赤い鱗に覆われて、海を泳ぐのにとても便利なヒレじゃなくて、人間と同じ、白くて長い二本の脚。牡蠣の内側みたいに滑らかで、でも触ると泣きそうになるくらい痛い。
 そっか、私人間になったんだ――。
 でも普段見られない部分が見えると思うと、急に恥ずかしくなった。岩場に潜んで、海に漂う一枚の布を、それまでと同じように腰に巻いた。そうすると、ヒレがある時と一緒で足の指先まですっぽりと隠れた。
 そのまま、月の匂いと空気の味を楽しみながら、私は一晩を過ごした。靡く髪、こんなものも海の中では経験したことがなかった。風に任せるままに揺れ、海流に似ていても粘度や、運んでくる優しさが違う。海は優しい、でもそれはお父さんやお母さん、姉さん達に似て過保護で、何をするにしても手助けしてくれる優しさ。風は違う。冷たく突き放すかと思えば不意に吹いて来て、いつも見てるよ、と語りかける。
 声が出なくても口笛は吹けた。いつもやるみたいに空気の輪っかを作ろうとしての偶然だけど。自分で出しておきながら、なんて綺麗な音だろう、と思った。頭に浮かぶ、泡のようなイメージを、口先から音に変えて吐き出していく。私が人間になって初めての夜はそうやって更けていった。
 

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