小説

『リネン』三日月響(『蒲団』田山花袋)

(整髪料の香はアルジーの匂いだったんだね。)
 きちんとかけられた洋服と乱れのないリネンに包まれたアルジーは、想像していた男性とはかけ離れた、どこにでもいる相当高齢の男性だった。ホテル医と警察・・雑多な人の出入り。すべてが静かに処理されていく。
 荷物をまとめていくから、とスタッフを追いやり、アルジーを送り出した部屋のレコーダーを回収した。
 クローゼットの背広は上質な英国製のツイードだが裏地は擦り切れ、カフスにネームを入れた仕立てのシャツも首元は切れていた。
 磨きこんだ革靴も、腰皮の内側ははがれ、靴底は雨の日には相当用心して歩く必要がありそうなほどすり減っていた。
 私はこの部屋の枯れない芝生のような匂いが好きだった。でも、もしかしたらホテルでの滞在を心から楽しんでいたアルジーに、誰に何を言われようともバイト代をはたいて一人ホテルに滞在した若き日の自分と同じ匂いを感じていたのかもしれない。
 病死と判明した彼の素性が少しだけ知らされた。
 家族はなく、長年世話をしていた家政婦が先月突然亡くなったこと、仕事はなく、小さな借家の後片付けを警察立会いのもと近所の人たちが済ませたと後日談を聞いた。
 私はほっとしていた。
 ホテルには必ず終わりを告げる時間がくる。
 チェックイン時が特別な空間への入り口ならチェックアウト時は夢の終わりを告げる色あせたかぼちゃになった部屋の出口だ。時間の到来が平等に一夜の夢を覚ましていく。
アルジーの夢が覚めることはなかったが、人生が終わりを迎えたことを必ず知らせるホテルでよかったと思ったのだ。
 自分がしたあるまじき行為は、私にもう少しこの仕事を続けることを決意させた。罪悪感は、女をやさしく、謙虚にそして強くするものだ。最後の録音は聞かずにとっておくことにした。
 主を失った部屋は、随分冷え切っていた。あれからここで仮眠をとる機会もないまま今日異動の辞令が出た。
 開かない高層ホテルの部屋の窓からでも、戸外に吹き荒ぶ寒風が昨日より強くなっていることがわかった。私は主を失ったベットリネンにキスをした。
 

10/10

 

                                   

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