小説

『ネコソーゾクの兄弟』楠本龍一(『長靴を履いた猫』)

「そこなんだよ。ボードリヤールにあの古本屋を紹介される前にはそこに気が付いてなかった。自分には何が大切なのか。俺にとってはきちんと本質を考えながら生きるっていうことが大切だし、それを誤魔化さないことも大切なんだ。別にコミュニケーションしないって言ってるわけじゃない。コミュニケーションして同調しちゃうんじゃなくて、テーマを持って話し合って協調することが大切だってことさ」
「ふうむ……」ボードリヤールは納得したのかしていないのか、よくわからない表情で考えている。「美学かな。ご主人は本を読んでる間にそれが出てきたってことだ」
「ああ、美学、そうだな。自分の美学に忠実に生きることの方が俺にとっては仕事を見つけることそのものより大切だったってことだ」
「不安だったのはどうなったのさ?」
「不安がないと言えばウソだけど、前に感じてた得体の知れない不安とは違うぞ。今の俺にはテーマがあるからな。状況は確かにあんまり芳しくないし、もしかしたらより困った状況に向かってるかもしれないが、少なくとも心が燃えてる実感はあるし、その衝動に理屈をつけるだけの言葉も手に入れたんだ。それというのもお前の助けのお蔭だ、ボードリヤール。俺一人じゃあの古本屋には行きつかなかった」
俺は出来るだけ細かくちぎった不採用通知を天井目がけてぶちまけた。不採用通知の破片が紙ふぶきとなって俺とボードリヤールに降り注ぐ。ボードリヤールが紙のシャワーの向こうでまた笑った。
「こりゃ予想外だなあ。でもご主人らしいか。ご主人は自分で考えることで自分になれたんだ。だけど自分でいるってことはリスクもある。世の中には、ほとんど受け入れられないからね」
「お前が分かってくれれば十分過ぎるくらい十分だよ。それで生きていける。就職活動で落とされたってまたチャレンジできるし、会社に勤めない他の生き方を考えることだってできるさ」
「ふうん。随分考え方が変わったんだな。じゃあ少し元気出てきたところで、たまには里帰りしようぜ。親父さんの墓参りに、兄貴達にも顔見せた方がいいだろ」
 

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