小説

『流星のサドル』宮澤えふ(『蒲団』田山花袋)

 私はクラッとめまいがして、その場にしゃがみこんだ。新しいサドルは手に入らないのだ。
田中のやつ、サドルを買ってやる甲斐性もないのか。
いや、立て続けにサドルを取られて気味が悪くなった芳子が、自転車通勤をやめただけかもしれない。
 私は打ちひしがれて帰路についた。重い足取りでだらだら坂の下までたどり着いた時には、もうあたりは薄暗くなっていた。手ぶらで帰るのは不本意だったが、部屋で待つサドルが私を慰めてくれるだろう。気を取り直して坂を上りかけた時、一台の自転車が勢いよく下りてきて、私の傍らをすり抜けて行った。「危ないじゃないか」と呟きながら振り返ると、路地を入った所でキキーッとブレーキをかけて止まり、若い女が自転車を降りて家に入った。女は膝下くらいのスカートをはいていて、降りる時にふわりと捲れ上がり、夕闇の中で、白い太ももが上の方まで見えたのだ。私はごくりと唾を飲み込んだ。
 あのサドルが欲しい。
 幸いなことに懐に工具と風呂敷が入っている。私は慣れた手つきでサドルをはずし、風呂敷に包むと、軽快な足取りでだらだら坂を上がって帰宅した。
 風呂敷の中から出てきたのは茶色い革のサドルだった。だいぶ古びていて縁が擦り切れているところもあったが、古い革は手触りが良かった。白い太ももが瞼に焼き付いて離れない。女の顔は見なかったが、きっと美しい違いない。
 私は芳子を裏切っているかのような背徳感に恍惚としながら、その晩は茶色のサドルを抱いて眠った。
 私はそれから出歩く時は必ず工具と風呂敷を懐に入れるようになった。自転車に乗った若い女を見かけると後をつけて、職場や自宅に止めている間にサドルをもらうのだ。
 女学校の裏の自転車置き場には何度も足を運んだ。女学生や女教師のサドルがずらりと並ぶ宝の山で、私は見境なく持ち帰っては持ち主の顔を想像して楽しんだ。
 私の部屋はサドルで足の踏み場もなくなっていたが、心は満たされて幸せだった。ある日ふと気が付くと、細君と子供たちの姿が見当たらない。階下のちゃぶ台を見ると、干からびた握り飯の横に「実家に帰ります」という置手紙があった。いつからいなくなったのかもわからない。私は思わずにんまりとした。これでもう家族を養う心配をせずにサドル集めに没頭できる。細君の里は資産家だ。兄夫婦に気兼ねはあるだろうが食べさせてもらえるだろう。
 

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