小説

『流星のサドル』宮澤えふ(『蒲団』田山花袋)

 細君が整えてくれた真新しい蒲団は心地よかった。もっと早くに取り換えてもらえばよかったのだ。私は蒲団の中でサドルを抱きしめた。目を閉じると芳子を自転車の後ろにのせて、二人で夜空を駆け巡っていた。

 翌月、出版社に原稿を届けた帰り、私は芳子の姿を求めて上野にやってきた。花見の時期が終わって人ごみに紛れることもできない。私は図書館から少し離れたところでパナマ帽を目深にかぶり煙草をふかしていた。
 夕刻、芳子が姿を現した。白いブラウスと紺のズボンで、相変わらず美しかった。同僚の女と門の前でしばらく立ち話をしたあと、「じゃあね」と手を振って自転車で走り去った。
新しいサドルを買ったのか。そのくらいの出費は私をないがしろにした罰だ。サドルの上で揺れる芳子の尻を見つめているうちに、気持ちが抑えられなくなってきた。
あのサドルが欲しい。
 翌日、図書館を訪れた私は芳子のサドルを手に入れた。
 二つ目のサドルも黒の革製だった。中古の物を手に入れたようで、革はあちこちに傷があり、色あせた部分もある。かえってそこに芳子の匂いが浸み込んでいるような気がして、私はたまらなく愛おしくなった。二つのサドルを眺め、手に取って撫でまわし、夜はどちらかを抱いて眠る。それが私の日課となった。

 十日ほどたつと私はいらいらと落ち着かなくなった。芳子はもう新しいサドルを買っただろうか。それも私の物にしたい。私はもはや芳子に会いたいというよりも、芳子のサドルが欲しくてならず、気が付けば上野へ向っていた。
 図書館の裏手へ回ってみると、並んだ自転車の中に芳子のものは見当たらなかった。
 今日は休んでいるのだろうか。図書館に入ってみようかとためらったのだが、結局いつものように、門から離れたところで終業時間を待った。ほどなく芳子が門から出てきた。何ということだ。自転車に乗っていない。芳子は同僚の女と二人で歩いて坂道を下っていった。
 

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