小説

『流星のサドル』宮澤えふ(『蒲団』田山花袋)

 翌日も私は上野にやってきた。図書館の裏に回ってみると職員用入り口の前に何台か自転車が並んでいる。
どれも同じような黒い車体の自転車だったが、荷台の後ろに白ペンキで「田中」と書かれた一台を見つけた。やはりここで働いているようだ。私は花見客に紛れて時間をつぶし、夕方芳子が出てくるのを待った。「やあ」と声をかけたら芳子はどんな顔をするだろう。上京を知らせなかった不義理をなじりたい気持ちは山々だったが、偶然を装って普通に声をかけようと決めていた。
 昨夜芳子の蒲団にくるまって考えたのだ。芳子に夫がいることなど気にしなければよい。私にだって細君がいる。二人が出会えばまた昔のように気持ちが通じ合うかもしれないではないか。
 五時をまわり、図書館の建物の横から自転車を押した芳子の姿が現れた。昨日と同じ蓬色の上着とズボンで、連れの女はいなかった。声をかけるには好都合だ。
 私が一歩踏み出した途端、門の後ろから男の声がした。
「遅かったね」
「あら。迎えにきてくれたの?」
「仕事が早く終わったから一緒に帰ろうと思って」
「嬉しい」
 田中だ。いつからそこに立っていたのだろう。全く気付かなかった。向こうは気づいただろうか。いや、二人の様子を見ていたら、お互いしか目に入っていないのがよくわかる。
 敗北感で打ちのめされながら、私は二人の後姿を見つめていた。芳子が押している自転車を挟んで、二人は何度も楽しそうな笑い声をあげていた。時々田中が自転車のサドルに手を置く。私はそれを見て不愉快な気分になった。芳子の尻を触っているかのように思えたのだ。
 あのサドルの上に芳子は尻をのせているのか。そう思ったとたん、私はたまらなくあのサドルに触れてみたくなった。サドルが欲しい。芳子が手に入らないなら、サドルくらい私の物にしてもいいではないか。

 翌日、小さな工具と風呂敷を懐に入れて、私はまた図書館に向かった。裏の通用口が人目につかないことはわかっていた。私は芳子の自転車からサドルをはずすと風呂敷に包んで、果物でもぶらさげているように、平然と家に持ち帰った。
 二階の書斎に入って風呂敷を開いて、黒い革のサドルを手に取った。流線型の三角の形が妙になまめかしく、この上に芳子が尻をのせていたのだと思うと、抱きしめて頬ずりせずにはいられなかった。黒い革に鼻をつけ、芳子の匂いを探した。
 ふと傍らに雑に畳んだ芳子の蒲団が目に入った。萌黄色は今では茶色か鼠色かわからないほど汚れ、顔を近づけてみると黴や汗の混じった異臭を放っている。汚い。なぜこんな物に執着し続けてきたのだろう。
「おい。蒲団を片付けてくれないか」
 私は階下の細君に声をかけた。
 

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