小説

『人魚姫』山口みやこ(『人魚姫』)

毎朝、横浜にある両親の家から新宿にある世界中にブランチを持つ金融機関のオフィスまで通勤する私は、傍から見ればすんなりと環境に馴染んでいるように見えるのではないか。あまり興味はないが、外資系金融機関で働くお洒落な人達から浮かない程度にパンツスーツを着こなし、懲りすぎない程度に薄く化粧を施し。20歳の誕生日に両親からプレゼントされたプラチナのシンプルなネックレスと、これまた就職祝いに両親からプレゼントされた一生モノの腕時計を身に着け。パンプスをコツコツといわせながら、脇目も振らずオフィスに向かう様は迷いなくキャリアに邁進しているように見えそうだ。でも実際には英語が得意であった為に入りやすく、一番条件が良かった会社を選んだだけ。特に英語が使いたかったわけでもない。やりたいことは見つからないままだ。今となっては、大半の人は特にやりたいことを見つけることなく一生を平穏に送るのではないかとさえ考えている。

いつもであれば通勤時間を利用してNew York TimesやBBCのポッドキャストを聞いてニュースをチェックし日経新聞に目を通してしまうのだが、何故か今日はぼーっと自分の生活について思い返していた。気合を入れるために新宿駅からオフィスまでの道をいつもよりも足早に歩き、デスクについて直ぐE-mailをチェックしていると、
「川越君、ちょっといいか」
と上司の声が掛った。働き出して6年が経ちオフィスでの動作を考えることもなくなり、反射的に低めのはっきりした声で返事を返し、上司のデスク前に移動した。大嫌いな安物の煙草の臭いが鼻を突き、内心顔をしかめる。光沢のある生地で作られた体のラインに沿うスーツに毎週出かける高級レスラン。そんなブランドもこの臭いだけで台無しだといつも思う。
「今日からNYC本社から社員が1人やってくる。君の隣に座ってもらうから、暫く一緒に働いて日本での仕事の仕方を教えてやってくれ。彼女は日本語も堪能だと聞いているが、その辺もフォローをよろしく。」
言葉同士が昨日の高級なワインで粘ついているような喋り方で簡単に告げられる。これだけでは全くどうすべきか解らないが、この会社では個人主義をお互いに干渉しない事だと勘違いしているような風潮があることも既に学習しているので、あとは本人に聞くことにして了承の意を返して席に戻った。
 

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