小説

『もうひとつのアリとキリギリス』小倉正司(『アリとキリギリス』)

「アリさんの心は本当はこうしたい、ああしたいって感じているんだけれども、アリさんがそれに目を向けないんじゃないの。だから心の声が聞こえないんだよ。はじめはむずかしいかもしれないけれど、意識して自分の心に思いをよせて、自分は何をしたいかを問いつづけていれば、時間はかかるかもしれないけれどきっと答はみつかると思うよ」
「そんなもんかな」
「そんなもんだよ」
「でも、もしやりたいことが見つかっても、自分には能力が無くてそれをできないかもしれないだろ」
「できるかできないかも確かに大切だけど、いちばん大切なのは自分がどうしたいかっていうことじゃないのかな。それにね、いまのアリさんは信じられないかもしれないけれど、アリさんには自分で思っている以上にすぐれた力があるんだよ」
「すぐれた力?」
「そう。自分には大した力がないとみんな思っているけれど、いざその場になれば思いもよらない力が出るんだよ。たとえそのときに足りない能力があっても、続けていけばその能力は必ず備わってくるんだよ」
「ほんとかい」
 アリは眼を輝かせながら聞きました。
「ああ、本当だよ。経験したぼくが言うんだから間違いないよ」
 キリギリスは胸を張って答えました。
「そうか・・・自分が心からやりたいことか・・・」
 アリは遠くを見るような眼でつぶやきました。

 その時です、アリとキリギリスのうしろからどなり声がとんできました。
「おまえ、さぼって何をやっているんだ」
 おどろいて振り向いたアリとキリギリスの目に飛び込んできたのはアリの上司でした。怒りでアリの上司の顔は真っ赤です。ただでさえ大きな目をさらに見開いて、アリをにらみつけています。その姿を見たアリはなにも言えずにブルブルふるえています。
「たいせつな食べものの運搬を放り投げてなにをさぼっているんだ」
 アリの上司は大きな声でアリを怒鳴りつけます。
「は、は、はい。すみません。いや、このキリギリスさんが話しかけてきたんで、おもわず手をとめてしまいました。本当にすみません」
 アリは上司とは反対に真っ青な顔でこたえました。
 それを聞いたアリの上司は、こんどはキリギリスをにらみつけて言いました。
「おまえはだれだ。なんでおれたちの仕事のじゃまをするんだ」
「あやしい者ではありません。このちかくに暮らすキリギリスです。バイオリンの練習をしていたら、このアリさんが通りかかったので話しかけたんです。こんな暑いなか、汗だくで苦しそうに大きな食べものを運んでいたんで、つい話しかけてしまいました。だってあまりにもつらそうだったから・・・」
 キリギリスは答えました。
 

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