小説

『虫の家』荒井始(『変身』フランツ・カフカ)

 当然俄かには信じられないような話だ。人間が“虫”に姿を変えたなどと。しかし先程闇の中に見た姿は何か得体の知れないもののように感じた。それでもすぐさまもう一度確認しようという気にはなれなかった。
 この家の持つ陰鬱さの正体はそれだったのだろうか。
 俺が黙ったまま頷くと、娘は僅かに頬を緩ませてふーっと息を吐いた。その細い肩に手を置くと彼女はしくしくと静かに泣き始めた。
 それだけで彼女が冗談で言っているのではないということがわかった。きっとこの秘密を抱え込み、誰かと分かち合うことも出来ずに苦しんできたのだろう。

 それからも雨は降っては止みを繰り返し、俺達は一日中その家に釘付けにされる日が多かった。二人の男達はあの部屋について全く興味を抱いていないようだった。ギョロ目は相変わらず娘にちょっかいを掛けてはすげなくあしらわれ、髭男は妄想の入り混じり始めた武勇伝を老人に語り聞かせていた。
 あれから俺はあの“虫”を何度も夢に見た。隙間からじっとこちらを見ている姿。
 俺はあの部屋にもう一度入ることはできないかと考えていた。俺にとっての悪夢の種ともう一度対面しなければ俺はこれからずっとあの“兄”の姿を引き摺ることになりかねない。
 ダイニングの扉の陰からあの扉をじっと見つめていると、時折中からずずずずと音がする。その度に俺の中の悪夢の種は大きくなっていく。
 扉は厳重に施錠されて鍵がなければ開くことはできない。娘はあれからあの部屋の話題を意図的に避けている節があった。深入りするなと暗に示しているのだろう。
 なんとかして……。そう考えていた俺はすぐそばにあの幼い少女がいることにしばらく気付かなかった。
少女は物陰からじっとこちらを見つめていた。負けじと俺も見つめ返していると、ゆっくりと彼女は近づいて来て何かを俺に向かって差し出した。受け取ってみるとそれはあの日娘が持っていたのと同じ“兄”の部屋の鍵だった。
「これは……」
 尋ねようとする俺の目を逃れるように、少女はてててと駆けて行った。
 一体どうして彼女は俺に鍵を。俺の頭上には疑問符が現れたが、少女が一瞬その幼い眼差しの中に見せた何かを訴えかけるような光を思い返し、手の中の一本の鍵を握り締めた。
 

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