小説

『虫の家』荒井始(『変身』フランツ・カフカ)

 真っ暗な闇が口を開けた。開いた扉の隙間からオレンジ色の光がその闇の中を照らす。
 何かが、中で動いた。
 俺は吸い寄せられるように隙間に顔を押し付けた。冷えた空気が頬を撫で、すえたカビの臭いが漂ってきたが一向に気にならなかった。
 最低限の家具しかないがらんとした部屋だ。板の打ち付けられた窓のそばに寝台があるがそこは空だった。差し込んだ廊下の光が明々と壁の一廓を照らし出す。そこには文字が彫り込まれていた。
“変わろう、変われるさ”
「兄さんはどこに……」
 娘に尋ねようとして俺はぎょっとした。壁に並んだ箪笥と本棚の隙間、そこに何かがいるのだ。
 くちゃくちゃと何かを咀嚼する音が聞こえる。その何かが黙ってこちらを見ていることがわかる。俺は危うく尻餅を付きそうになりながら扉の隙間から顔を離してよろよろと身を退いた。
「あれは……なんだ……」
 娘は扉を閉じてから嫌というほど間を置いて言った。
「兄です」
 それで全てが通じると思っているかのように彼女は口を閉じた。俺は乾き切った口からなんとか言葉をひり出した。
「兄って……ありゃあ……」
「あれは数ヶ月前の朝のことです。兄はいつもまだ日も昇っていない早朝に起床して仕事に出ていました。しかしその日に限っていつになっても兄は起きてこなかったのです。部屋の中に呼び掛けてみても返答がなく、不審に思った両親と私が部屋に踏み込んでみると、そこには一匹の虫に姿を変えた兄が……」
 娘はそこでぐっと何かを堪えるようにまた間を置いた。
「兄は腕のいいセールスマンで、職場でも尊敬を集める素晴らしい人間でした。当たり前ですがこんなこと誰に言っても信じてもらえなかった。しかし“兄”を他人に見せてはいけないと両親は言うんです」
 最後にそれだけ言うと彼女は嗚咽のような嘲笑のような奇妙な音を喉の奥から響かせて黙った。
 そんなことがありうるか?
 

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