小説

『虫の家』荒井始(『変身』フランツ・カフカ)

 喉が渇いた。
 一日の仕事を終えてくたくたになった俺の頭にあったのはそれだけだった。
 喉に張り付いた砂埃が呼吸のたびにきしきしと痛むようだった。
 薄汚れた姿に大荷物を背負った男が二人俺の前を歩いている。
 通りを行き交う労働者達は疲れ切って地面に視線を這わせている。女や子供達まで陰鬱な表情を浮かべてそそくさと帰路を急ぐ。その中でさえ、その二人の姿は汚らしく浮いて見えた。煤けた肩に乗った大荷物がゆらりゆらりと揺れる。自分もその二人と同じ姿だと思うと妙な連帯感が湧いてくる。
 一人は伸び放題の髭を口元にたくわえた大男で、もう一人は落ち付かなげに視線を周囲に彷徨わせる痩せこけたギョロ目の男だった。
 作業員のために会社が用意した急ごしらえの寮は三人分部屋が足りなかった。その結果俺達三人は急遽近場の家で間借りすることになったのだ。
 貧乏くじを引いたものだとは思うが、しかし社会の中では必ず誰かがこういう役回りに当たるのだ。そう割り切ってしまえばなんだか人の役に立った気がして幾分気も楽になる。それにそこまで不便もなかろう。今はただ喉が渇いた。
 ただの水だろうと、今なら高級ワインのような芳醇な味わいをきっと与えてくれることだろう。その瞬間の快楽を想像しながら俺は前の二人について行った。
 俺達は一軒の古びた家に辿り着いた。
「ふう」
 思わず溜息が出た。
 通りに沿ってぎゅうぎゅうに押し込まれた住宅の一つだ。黒ずんだ壁面にぽつぽつと並んだ小さな窓が目玉のように俺達を見下ろしている。
 古い汚いは覚悟の上だったが、家までもが陰鬱な空気を纏って見える。しかしこの際寝られさえすれば文句はない。それよりも喉が渇いた。
 ふとなんとなく俺は背後を振り向いた。すると斜向かいの建物の影から警官らしき太った男がその小さな目でじっとこちらを見ていた。
 俺は僅かに心臓が高鳴るのを感じた。
 落ち着け。もう俺は警官に追われるようなことはしていない。清廉潔白の身で汗を流す哀れな労働者の一人に過ぎないのだ。あれはきっと俺を見ているのではない。
 俺は平静を装ってゆっくりとまた前を向いた。
「おい」
 前方の髭男が苛立たしげに俺を待っている。ギョロ目は既に中に入ったらしい。
 俺は入り口に消える男の後を慌てて追った。
 

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