小説

『耐えろサトル』小野塚一成(『走れメロス』)

しかし「いや待てよ、信じていると言ってもセリヌンティウスは人質だ。彼はメロスが戻ってきて自由になるのを待っている身だ」「今の状況に当てはめると俺は確かに目的に向かって走るメロスだが、この場合自由になれるのを待ち望んでいるセリヌンティウスは、この下腹部を苦しめている悪の権化的な物体なのではないか?」
「いや違う、この物体は暴君ディオニスだ。この血も涙もない魔の手から開放されるのは俺自身だ。やはりセリヌンティウスは俺だ。」
もはや身も心も追い込まれ過ぎて極限状態に陥り、悟は自分でも理解できない思考回路にスッポリとはまりこんでしまっていた。
と、不意に前方に目指すトイレが見えてきた。先ほどの、『現実においてはどうでもいいことを考える』という思考が、直面している事実から目をそらさせ、問題意識をそこからあえて遠ざけ、足を機械的に進めさせ、その結果かなりの距離を稼ぐことができたのだ。もちろん悟自身はそれを意識して行った訳ではない。これはもはや危機から逃れようとする生物の本能の成せる業なのかもしれない。だがまだ気は抜けない。最後の最後で油断してはいけない。個室が空いているとは限らないからだ。悟は小学生の時に経験した苦い思い出から、ゴール直前に落とし穴があることを承知していたのだ。
入り口のコーナーを回るためにスピードを落とし、スムーズに目的地内部へ入り込む。まずは状況を確認する。5つある個室の扉は全て閉まっている。手前の個室から鍵がかかっているかどうか確認すると、ドアの表示は無常にも閉ざされていることを示す赤になっている。赤。また赤。さらに赤。
「もう駄目か」もはやこれまでかと、絶望的なまなざしを最後の扉に向ける。
青。
悟は稲妻よりも早くドアを開け、彼を苦悶に縛りつけていた鎖を一気呵成に解き放ち、深い安堵に浸った。
そうだ。彼は勝ったのだ。内在する凶暴な欲求に対して、人間性の勝利を知らしめたのだ。そして、この危機を乗り越えたという経験は、悟にとってまたひとつ人間的な面においての肥やしになったのだ。だから些細なことは問題ではないのだ。そう、その個室には紙が無いということなど問題ではないのだ。

 

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