小説

『耐えろサトル』小野塚一成(『走れメロス』)

ここは郊外のとある駅。この駅は複数の路線が交わるため、帰宅ラッシュ時には乗り換えの客が多く、やたら混雑している。その混雑した駅構内の通路を一人の男が足早に道を急いでいる。
彼、鈴木悟は今日もそつなく仕事をこなし、帰宅の途に就いた。
彼の住んでいるマンションから彼の勤め先までは、まず最寄り駅まで徒歩約7分、最寄り駅から30分ほど電車に揺られた後、乗り換えて約20分。電車を降り、そこから5分ほど歩くと会社に着く。
彼は今上述の逆のルートをたどり、途中の乗り換え駅構内を歩いている。普段なら仕事上がりの開放感と心地よい疲労感を同時に身内に覚え、ともすると出勤時よりも軽い足取りでサクサク歩くのだが、今日は少し、いや、かなり事情が違った。
彼は確かに足早に歩いているのだが、それは決して軽い足取りではない。その証拠に眉間にしわを寄せ、目をギラつかせ、血色も悪く青白くなった彼の顔からは、どこからどう見ても切羽詰った印象を受ける。
それもそのはず、彼はこの駅にたどりつく前に突如襲ってきた強烈な便意と戦っているのだ。
予兆はあった。会社を出る直前、それらしき感覚はあったのだ。しかしその時はもう完全に帰り支度を整えていて、わざわざ出るか出ないかの用を足す為に、さほど好きでもない会社にわざわざ留まる気にはなれなかったのだ。
しかし甘かった。見積もりを誤った。かなりの慎重派である彼は、仕事においては作成する資料の数字や取引先とのアポイントメントの時間、送信するメールでの言葉使いなどを毎回極めて入念にチェックし、決してミスの無いように取り計らってきた。おかげで上司からは「念入り大臣」などという面白み及びセンスのかけらも無いアダ名を頂戴したほどだ。
だが念入り大臣の念の入りっぷりも、あくまで仕事上のみでのこと。便意というプライベート中のプライベートにおいては、大臣らしい念の入りっぷりを発揮することは残念ながら出来なかった。
 

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