小説

『きこえる』鈴木まり子(『蛇婿』)

 時計を見上げたエリは、小さくため息をついた。今日も、終電を逃した。のろのろとした動作で、パソコンの電源を落とし、コートをはおる。
 会社を出ると、タクシーをつかまえるために、大通りに向かった。こういう日に限って、タクシーは一台も通らない。エリは、携帯を取り出すと、迷わず、和也に電話をかけた。和也は出ないまま、留守電になった。むしゃくしゃして、伝言も残さずに、電話をきる。なんで、出ないの。今、声が聞きたかったのに。そんなふうに怒るのは、子どもじみていると、自分でもわかっている。ただのやつあたりにすぎない。和也に、今から会いたいわけじゃない。どうでもいい話がしたかっただけだ。最近は、デートをする時間さえ、なかった。
 ここのところ、会社と家の往復しかしていない。何やってるんだろ。空を見上げると、ビルとビルのすきまに、白い月が浮かんでいる。どこか、遠くに行きたい、とエリは思った。それでも、朝になったら、電車に体をすべりこませて、会社に行くんだろう。
 そのとき、電話のベルの音がした。エリの手の中の携帯は、静かなままだ。ぎょっとして、あたりを見回した。音は、誰もいない電話ボックスから聞こえていた。こんなところに、電話ボックスがあったなんて、気がつかなかった。
 あたりに、他の人の姿は見えない。無視しようとするのに、電話はしつこく鳴り続けている。エリは、ふいに好奇心を覚えた。電話ボックスを開けて、おそるおそる、受話器をとった。
 電話の向こうからは、何も聞こえない。やっぱりいたずらかと、電話をきろうとしたとき、ぽちゃんと水滴の落ちる音がした。背筋が寒くなって、エリは乱暴に受話器をおいた。

 電話ボックスを出たエリは、その場に座りこみそうになった。あたりのビルが消えていた。道路も、街灯も、ない。
 エリは、水辺に立っていた。水面は、ほの白い光を発している。エリは、人の気配を感じて、顔をあげた。少し離れたところに、若い男が立っていた。着物を着たその男は、はっとするほど美しい顔立ちをしている。男は、エリを見て、かすかにほほ笑んだ。
 そのとき、後ろから、
「ちょいと」
と、しゃがれた声がした。エリは、短く悲鳴をあげると、とびのくようにして、後ろを振り返った。そこには、ちょうちんを下げたおじいさんが立っていた。
 

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