小説

『雪まろげ』貴島智子(雨月物語『菊花の約』)

 雪の冷たさに酔いがさめ、段々と腹立たしさが込み上げてきた。銕之丞は勢いをつけ、むっくと起き上がると、息を殺してそろりそろり馨の背後に忍び寄った。
「馨!」
 名前を呼ばれた馨が反射的に振り返ると、そこにはニヤリと笑う銕之丞の顔があった。つられてだらしなく笑う馨の顔めがけて、白銀の丸い玉が飛び掛かってきた。
銕之丞が投げた雪玉だ。
 雪玉は、形の整った馨の鼻先でくしゃりと崩れ、降り積もる地面の雪とひとつになった。冷たい雪玉の餌食となった馨の顔はみるみる赤くなった。随分と酔いがさめ、血の気が退いていたのに、すっかり逆戻りだ。
「そうくると思っていたぞ、銕之丞!」
 馨の膝元を見ると、大量の丸く白い玉がきっちりと整列していた。先程より熱心に作っていたのは雪玉だったのだ。銕之丞はぎょっとした。馨は両手に雪玉を掴み、銕之丞の月代めがけて、思い切り投げつけた。ただでさえ涼しい月代に雪が舞うと、全身身震いがする。銕之丞は寒さを堪え、夢中になり雪玉をこさえた。その間にも、馨からお構い無しに冷たい弾丸が次々と浴びせられる。しばらくすると、銕之丞の応戦が始まった。

 二人は飛んで跳ねて……まるでじゃれあう仔犬のように白銀の世界を駆け回った。
 白い雪の上に、二人の若侍の足跡がひとつ、ふたつ、みっつ……
 空が明るくなる頃、それは縦横無尽な広がりを見せていた。

 風も雪もすっかり寝静まり、全てが闇に包まれた頃、馨と銕之丞は旅籠に戻ってきた。
 馨は雪でじっくりと濡れた二人分の着物を丁寧に干し、そして出立までの僅かな時間、横になり冷え切った身体を休めた。銕之丞は既にもぐらのように布団に潜り込んでいた。
 お天道様がすっかり顔を出し、昨夜の雪を少しずつ溶かし始めた頃、銕之丞が静かに身体を起こした。馨に支度を促すと、隣の布団がさざ波を立てるように小刻みに震えている。布団にうずくまる馨の様子は明らかにおかしい。昨晩以上に赤く火照った顔、息遣いも随分と荒い。額に手をかざしてみた。
……熱い。
 どうにも本日の出立は無理である。銕之丞は旅籠の番頭に事情を説明し、逗留を一日延ばして貰った。女将は、昨日まで元気にしていた馨が急に高熱を出した事を、大変案じている様子であった。持病があるのか、食べたものが悪かったのか、流行り病にかかったのではないか……長逗留の間にすっかり情が移ったのか、まるで我子の大事に狼狽する母のようである。銕之丞は、昨夜の二人の様子を何とか思い出しながら女将に告げた。酒のせいで記憶がすっぽり抜け落ちた部分もあるが、大方このような始末であろうと、少し情けない気分で話しを続けた。女将は少し呆気に取られた様であった。若いとは云え、知も理も備えたお侍が雪をぶつけ合い、熱を出すまで駆け回るとは何事か。しかし、そんな屈託のない二人がいじらしくも感じられた。
 

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