小説

『大文字百景』今泉きいろ(『富嶽百景』太宰治)

 少年はぽかんと口を開けていた。私の言葉の意味が分からなかったらしい。鶴さんは、一瞬の驚いたような顔をした後、ぷっと吹き出した。それを見て、少年はなんだか、意味が分からないにしても、分かった振りをして、笑った。
その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも、本物のような気がした。
「犬」の字の「点」になってしばらく休憩しながら、少年の提案した、しりとり遊びに興じたり、健太君が持ってきたお菓子を、三人で分けて食べたりした。しばらくして、山頂から大山さんが降りてきた。私たちを見つけるなり、急いだ口調で言った。
「健太、さっき電話があった。お母さんの会社でまたトラブルとかで、すぐに帰らないといけないそうだ。もう帰るよ」
少年は、ごねた。帰りたくない、と言った。でも結局、おじいちゃんに説得された。私も鶴さんも、ただ、さよなら言って、引っ張られていく少年を見送るしかなかった。おじいちゃんに手を引かれ、歩き出す前、一度だけ少年はこちらを振り返った。ぐすん、と鼻をすすったかと思うと、その目から、一筋、涙がこぼれた。
吹き出した鶴さん、何よりも本物の嘘笑い、少年の一筋の涙。これらをいつまでも、覚えていようと、思った。
「でも、なんだか驚いてしまいました」
少年と大山さんが去って、しばらく黙っていた鶴さんが、言った。
「何がです?」
「だって、突然、『犬』かもしれないだワン、なんて、そんな変なこと言う人だとは思っていませんでしたから」
「いや、気まぐれです。なんだかお二人に、なりふり構わず引きずられていく、犬にでもなった気分がしていたからです」
「まあ、私は乱暴な飼い主ですか?」
「いえいえ。そういえば、一説によると、この『大』の字は、弘法大師が書いたものであるらしいのです。とすると、それが、『犬』に、なってしまったら、なんだかまさしく、弘法にも筆の誤り、といった趣ですよね」
「何ですか、それ」
 鶴さんは、笑った。
「ええ、まあでも、弘法大師ですら、間違いをするのだから、どんな人間でも、ちょっとの間違いぐらいは許されるような気がして、なんだかほっとしませんか?」
 鶴さんは、くすくす笑いながら、あきれたような、感心したような表情で、言った。
「あなたって、面白いのですね」
 私は、ただ、はあ、と呟いた。
 

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