小説

『人魚に恋した少年』小山遥(『人魚姫』)

 彼女の前に王子は立ち、微笑む。
「はじめまして。話は彼から聞いています。貴女さえよろしければ、この城でゆっくりなさってください」
 彼女は眩しそうな瞳で、こっくりとうなずく。王子は彼女の食事が残っていることに気付いたらしく、「おや」と言った。
「あまり召し上がっていませんね。食欲がありませんか?」
「……!」
 即座に彼女はかぶりを振った。では、と王子が微笑む。
「ぜひ召し上がってみてください。美味しいですよ」
「……」
 彼女はなぜかためらっているようだったが、王子に言われるままにパンを一口ちぎって食べた。そして目を丸くする。
「美味しいでしょう?」
 彼女は笑顔でうなずいた。
「それでは、私はこれで失礼しますから、ごゆっくり召し上がってください」
 そう言い残して部屋を出て行く王子の背中を、彼女はまた眩しそうな瞳で見送っていた。
 うーむ、これは……。今の様子で、どうも彼女の心情を理解できたような気がするが、しかしどうしたものだろうか。王子には既に隣国の姫がいる……とはいえ、それを俺から言うのも筋違いだろう。
 考え込んでいると、不意に彼女に服を引っ張られた。
「あ、すみません。何ですか?」
 彼女はペンで何か書くような仕草をした。それから自分の胸を叩く。
「……書くものが欲しいんですか?」
 かぶりを振る。そして、何か書く動き。俺を指してから自分を指す。
「ええと、書く……文章……文字?」
 うなずいた。それで俺は気付く、話せないならば筆談という手もある。しかし彼女は書くものが欲しいわけではない、ならば……
「ひょっとして……文字を教えてほしい、と?僕にですか?」
 何度もうなずく。そうか、彼女は文字を知らないのか……。
 王子に会った直後にそんな頼みごとをしてくる彼女――文字を覚える目的を勘ぐらなかったと言えば嘘になる。しかし、目的が何であろうと、筆談が出来れば意思疎通の助けになるのは確かなのだから、とくに断る理由も無かった。
「わかりました。僕の仕事の空いたときでよければ」
 彼女は破顔した。

 その日から俺は彼女に文字を教え始めた。ちなみに王子に事の次第を話すと、仕事の合間と言わず、仕事の一部として時間をとって構わないと言われたのでそのようにした。その際、王子から彼女が文字を学ぶ理由を聞かれた俺は、「手紙でも書きたい相手がいるのではないですか」と言ってみたが、王子は明らかにその意味を理解してはいなかった。
 そして俺は毎日決まった時間に彼女の部屋を訪れた。彼女は真剣に俺の話を聞いたし、俺が褒めるまで何度でも同じ字を書いた。そうして彼女は字を覚え、身の回りの簡単な単語を少しずつ覚え、俺と筆談で多少の会話もできるようになってきた。彼女の意外なほどの辛抱強さに感心する気持ちもあり、俺は最初よりも、教えることに真剣になっていった。

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