小説

『故郷』智子(『放浪記』林芙美子)

 ありがとうとお礼を言って、遠慮なく食べる。とても懐かしい。幼い頃のいろいろなことが蘇ってくる。あの土地に住んでいた時のいろいろなこと。小学校の机がちょっとだけザラザラしてたこと、自分が住んでいた家の間取り、そしてその時に友達と遊びに行った場所や、その時乗ってた自転車の色。
 それらの取り留めない、けども私にとっては大事な思い出たち。
 もしかして、私にとっての故郷はこの街だったのかもしれない。
 私はそう思いながらパクパク夏みかんゼリーを食べる。
 美味しい。美味しすぎる。そして懐かしい味がする。
 これこそ、故郷の味か。
 「ねえ、期末が終わったら一緒に帰ろうよ。で、みんなも大学から帰ってくるはずだから、同窓会開こう!みんなで待ってるよ!」
 友人が私を見てにっこりとしてそう言う。
「うん!喜んで!久々に、故郷に帰りたいな」
 私は笑顔で言う。
 いつも故郷という言葉を言ってしまうと、白々しいぐらい浮いてしまいものだが、今、初めて故郷という言葉を自然に使えた気がする。
 嗚呼、私にだって故郷はあったのだった。ただ、気づいてなかっただけで。

 今まで前だけを向いて進んできた。引越しばっかりの人生だった。
 変化に慣れる前に次の変化がやってくる日々であった。だから後ろ向いて過去なんて振り向く暇なかった。
 次の春は初めて私に引越しがない春である。親は引越しするみたいだけども、私は一人暮らしだからもう親の引越しは関係無い。
 私は、この春、初めてゆっくりと後ろを向く時間ができるだろう。

 前にばかり進むことでここまで来ることができたわけだけども、たまには後ろを向いてみよう。
 何か大事なものが見つかる、そんな気がする。

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