小説

『となりの桜子さん』陰日向(『トイレの花子さん』)

「ありがとうございます……。それだけで私、なんか、頑張れそうです」
 その時、一週間前トイレに来た子たちがこちらに歩いてきた。名前を覚えてもらった喜びが後押ししたのかもしれない。私は咄嗟に話しかけていた。
「あっ、あの、どうしてトイレに来ないんですか?」
 聞こえていないのか、その子はそのまま通り過ぎて行った。
「答えてくれませんね」
「当たり前じゃなぁい。今の私たちは、姿が見えないんだから」
「どうしてですか」
 尋ねる私に花子さんは、顔の前で人さし指をノンノンと振った。
「私は『トイレの花子さん』だから、他の場所で姿をみせないことにしてるの。だって、どこでも姿を現してたら、私の名前が『どこかの花子さん』になっちゃうじゃなぁい」
「そっか……じゃぁ、私は……」
「『ただの桜子さん』でしょ。住処である四番目のトイレならまだしも、他の場所で姿を現すには、お化け力がまだまだいるわね。
「そうなんですか……」
 私は自分の未熟さにがっかりした。
 気持ちが沈んだままふと目を向けると、子供たちが、ある場所に入って行くのが見えた。
「あっ。あの二人、トイレに入って行きますね」
「ほんとうね。ちょっと行ってみましょ」
「えっ。男子専用トイレですよ」
「何言ってるの。私たちが住んでいるところも男子トイレじゃなぁい」
 そうだった。
 心臓発作を起こしたのが男子トイレの前だったせいか、お化けになってから、私は引き寄せられるように男子トイレに住み始めてしまったのだった。
 私たちがトイレの入口に差し掛かかると、水の流れる音が聞こえてきた。
「何でしょう」
 トイレを覗き込んだ私たちの目に、衝撃的な光景が飛び込んで来た。
 壁は校舎と同じクリーム色で統一され、一つ一つ独立している洗面台にはそれぞれに鏡がある。蛇口と石鹸は自動式で、手を差し出せば難なく手を洗うことが出来る仕組みとなっていた。しかしそんな快適な場所も公衆便所のような臭いが鼻を衝き、洗面台はびしょびしょ。鏡は自分の姿も映らないほど曇っていたのである。
「ひどい……」
 私は愕然としながら呟いた。
「これはすごいわねぇ」

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