小説

『ご家老の気苦労』菊地フビオ(『目黒のさんま』)

 家老、田中三太夫は先程まで君主である赤井御門守(あかいごもんのかみ)の座していた場所に座る偉丈夫と対峙している。
「返答やいかに?」
 君主、赤井御門守の叔父にあたるこの人物は、藩の筆頭家老の問いかけに答えない。それどころか足をだらしなく崩して小指で耳クソをほじくりヒックとしゃっくりまでした。
「まぁまぁご家老様、人の口に戸はなんとかと言うではありませんか」
「黙らっしゃいっ」
事情を聞き出すために一人残した八五郎が背後から軽口を叩くのを恫喝し
「口に戸を立ててもらわねば困る。ご隠居どの、返答やいかに?」
「わかった三太夫。それがしの言うこと、いちいちごもっとも。今宵の事は一切口外せんと誓う」
「では血判状(けっぱんじょう)をいただきまする」
「酒も入っておる。いくらなんでもそれはワシに対して無礼であろう。そもそも殿の遠出を労って開いた酒宴で顔を潰されたのはむしろワシのほうじゃ。せっかく殿の所望する魚を急ぎ取り寄せて料理したあげくに・・・プッ・・・ププーッ」
「しゃッ」
 三太夫はご隠居の悪ふざけを諌めようと膝を立てると、背後からもクックックと笑いを堪える気配がしたので、いちいち腹を立てるのにも疲れて思う存分笑わせる事にした。
「そ、そなた。は、八五郎と言ったかの。ププー。殿はどこぞのサンマを所望じゃ?」
「余は目黒のさんまを所望するっ」
 悪ノリした八五郎がパーンと膝を叩いて答える。すると上座と下座の二人は三太夫を挟んでヒーだのヒャーだの腹を抱えて悶絶している。
(二人共、いや、八五郎だけでも斬ろうか)
 殿の叔父で隠居の身と言ってもこの御仁はまだ四十を過ぎたばかりである。先の家督争いで破れて隠居したこの御仁は、三太夫が当時今の殿側についた事を根に持っているのは明らかだった。
「ヒーヒー。いや三太夫よ。顔を潰されたなどと家臣が殿に対して申す言葉ではないな。すまん。だが約束は守るゆえ今日はこれで堪忍してくれ。ヒー」
「さんまは目黒に限るっ」
 パーンと膝を叩いて後ろの八五郎がまたふざけた口を叩く。するとご隠居は呼吸が困難なほど悶絶し、行儀悪く足を中にばたつかせている。三太夫はこの屋敷の帰り道で八五郎を斬ると決意した。
「では今宵の件、生涯他言無用にお願いいたしますぞ」
 ご隠居が笑いやんだところで三太夫は軽く平伏し部屋を出ようとするのを、待てとご隠居が引き止めた。

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