小説

『ランプ屋』林ミモザ(『こぶとりじいさん』)

 するとその気配を感じ取ったように、マスターは今度ははっきりとした笑顔になって、声を出して笑った。
「やあ、これはごめんごめん。何だか驚かせてしまったようだ。別にあなたが思ったような危ない店ではないよ。お酒は確かに出さないが、ケーキや珈琲は自慢ですよ。ただの喫茶店だと思ってくれて一向に構わない。事実そんなお客の方が多いんだから。ただね、あなたみたいなきれいな女性が、一人で訪れてくれることなど滅多にないのでね。ちょっと僕の理想を大げさに話してみたまでのことですよ。いや、これは失敬」
「理想、ですか…」
 ようやく少し安堵して、美咲は肩の力が抜けた。マスターは笑顔を見ればごく人懐こい優しい目をした、穏やかな人だった。
「何か飲みますか?ホットチョコレートでも?」
「あ、嬉しい。それ、お願いします」
 マイセンのカップで供されたホットチョコレートは、熱く甘く、香り高くて美味しかった。とろりとなめらかな艶を湛えたカカオの滋味溢れるそれを、美咲はうっとりと味わった。
「おっと、音楽を忘れていた」
 彼はそう言いながら棚に飾った一枚のレコードを取り上げ、ターンテーブルの針を落とした。
 心安らぐ音色が空間に満ちる。美咲は片肘をついて頭をゆっくりと揺らした。今日一日の仕事と雨に疲れた体がゆるやかに回復していくようだ。
 そうして目を閉じていると、不意に厳しい声が飛んできた。
「…お止めなさい」「え?」
 意味がわからず、美咲は目を開けた。マスターが、眉間にしわを寄せて自分を見つめている。
「あの、何を…」
「頬杖をつくのは止めたほうがいい。あなたはそんなにきれいなのに、そうすると何だかとてもつまらない人生を生きているように見えてしまう。勿体ないですよ」
 ハッとした。知らず知らずのうちに、いつもの癖が出ていたのだ。
左頬のこぶを気にするあまり、高校生の頃から頬杖をつくようになっていた。父親からも、新入社員研修の時にも注意をされたが、仕事以外の場所ではなかなかこの癖が抜けないでいるのだった。まさか初めて出会った人に指摘されるとは。美咲は情けなさと恥ずかしさでいっぱいになった。
 けれども却って遠慮ない指摘が、心を解きほぐしたのかもしれない。次の瞬間、彼女の唇からはこれまでの悩みが堰を切ったようにこぼれ出た。
長いつきあいになるコイツは、一度切ったけれどすぐにまた元通りになってしまったこと。周囲は気にするなというが、どうしてもこのせいで自分に自信が持てないでいること。隠したいと思うあまりに、頬杖をつく癖がもうずっと抜けないでいること…。

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