小説

『白い手袋の男』あおきゆか(『妙な話』芥川龍之介)

 もしかすると、僕があと半年で二十歳になるからそしたら投票できますねっていう意味だろうか。しかしたかが地元の町長選挙の選挙人が、どうして一市民の誕生日を知ってるんだ?知り合いでもない。それとも僕が忘れているだけで彼はここの地元の人なんだろうか。それならはっきり名乗るなり、挨拶するなりするでしょう。いきなりあと半年、だなんて言うはずがない。いったい僕は何を思っているんだろう。
 あと半年。あれはどういう意味だったのか。そのうえ、たったいま目にしたはずの選挙人の顔が僕にはどうしても思い出せなかったのです。そのあと、公示されているポスターを見に行ってもみました。候補者は全部で六人いました。女の人はいませんし、一人おじいさんがいるけどほか五人は同じくらいの年齢に見えます。たった今会ったばかりの人と、写真に写っている人との見分けがつかないなんて、僕はきっと事件の加害者とかを見かけてもちっとも役に立たないだろうな・・・。なんて笑いながらも、僕にははっきりしていました。思い出せないんじゃないし、見分けがつかないわけでもないのです。この五人は絶対にさっきの男ではない。それでいて、僕にはどうしてもあの男の顔が思い出せないのです。
 僕は家に戻ると手にしていたペットボトルのジュースを机の上にほうりなげました。ジュースはごろんごろんと音をたて机には乗らず、その下に落っこちました。それを拾いもせず、僕はまたベッドに横になりそのまま眠ってしまいました。何か厭な夢を見たような気もするのですが、やはり思い出すことはできませんでした。

 秋になりました。僕はアパートに戻り学生生活を続けていました。だから十月に選挙があると聞くまで、夏に起きた奇妙なできごとはすっかり忘れていたのです。まあ、今僕がいるところは東京だし、田舎の選挙に出ていた男が区長選に出るはずがないよな。あいつがほんとに選挙人だとすればだけど。
 なんて思ってほくそ笑んでいたのです。
 僕はその日、大学の授業をひとつさぼってひとり帰り道を歩いていました。前には学生たちが並んで楽しそうに騒いでいます。えんえんと選挙カーから名前を連呼する声が聞こえます。朝、駅で街頭演説する姿も見かけました。うるさいなあ。なんだか頭が痛いよ。こめかみをもんでいると、ふと誰かに呼び止められた気がしたのです。
「あと五か月ですよ」
 振り返りましたが、僕の後ろには誰もいませんでした。もちろん地元と違って人は多いので、学生や通行人はたくさんいますが、少なくとも耳元で囁けるような距離に人はいません。
商店街のアーケード入り口には名前を染め抜いたたすきをかけ、白い手袋をはめて、人々に手を振っている男がいます。彼のまわりには、黄色いジャケット姿の後援者らしき人たちが群がっているし、通りがかりのおばさんが握手を求められ、がんばってくださいね、なんて答えています。

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