小説

『走ってるんだよな? お前』川月周(『走れメロス』太宰治)

「すまん! 阿戸! 待たせたな!」
 急に扉が開かれ、俺達は一斉に顔を向ける。
「これで借金はチャラだ。受け取れ」
 息を切らしながら、一体何をしてきたのかボロボロの姿で締口はテーブルの横まで来ると分厚い封筒をポンと投げた。
「へへへ……セーフ」
「は……ははは……せ、せーふ……」
 締口の微笑む顔を見て一気に体中から力が抜けていった。スーツの男は封筒を手に取り中身を確認する。一枚一枚丁寧に。
 そして最後の一枚をはじくと、フンと鼻を鳴らした。
「確かに。兄ちゃん良かったな。これで自由だ」
 両隣の男達はさもつまらなそうな顔で立ち上がり、事務所の奥へ入って行った。締口は俺の肩に手を置いて頷く。俺もその顔を見上げて頷いた。
 安堵から涙が溢れていた。
「おう。お前等。用済んだんだからとっとと出て行け」
 スーツの男が立ち上がり、顎で出入り口を指した。俺と締口は促されるまま扉の方へと歩く。
「兄ちゃん」
 背中にかけられた声に立ち止まり、振り向く。
「忘れもんだ」
 男から投げられたものを両手でキャッチした。走れメロスの文庫本だった。
「やるよ。もう必要ねぇ」
「あ、……どうも」
 男は俺が会釈をすると鼻で笑った。
「ふん。まぁそれなりに楽しかったぜ兄ちゃんと物語考えてた時間」
「こちらこそ」
 お互いに微笑み合う俺と男を締口は不思議そうな顔で眺めていた。無理もない。俺達が一体どんな時間の過ごし方で締口を待っていたかなんてこいつは知る由もないんだから。もちろん俺も締口にどんな事があったのかはわからない。でもこの息切れ具合、長い事走ったんだろ? お前。
 事務所を出てまずは銭湯へ向かった。俺は風呂に入りそびれていたし、何より締口がえらく臭った。
 道中で走れメロスを読んでみたが、文庫本自体は短編集で、走れメロスは驚くほど短く、読み終えるのに三十分もかからなかった。
 読み終えた後、締口にも貸して読ませると、俺達は途中で寄った公園で一発ずつ本気で殴り合い、そして抱擁した。

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