小説

『日出ずる村の記』虫丸尚(『聖徳太子伝記』)

 村の鎮守の「弁天さん」は、山の中腹にある。そこ一帯は隣村の区画であったが、神社の境内だけはK村の飛地として管理されてきた。村からは歩いて十分ほど、東に向いて坂道を登ったところに石の鳥居が立っている。そこから細い石段が連なり、見上げた先に拝殿の屋根瓦が見える。
 「弁天さん」とは村の人たちが昔から伝える愛称で、正式の名を春日山岩倉神社という。祭神は伊勢の内宮と同じ天照大神である。では、なぜ「弁天さん」なのか。これには深いわけがある。そもそもこの神社の神体は、山麓に数ある塚穴の中で唯一、入り口が西に向いて開く特殊な塚穴、そのものなのだ。しかし、厳しく立ち入りを禁じられており、中の様子を私は知らない。
 村の古老の伝承によると、我らの祖先がこの地に定住を始めた頃、すでにこの塚穴は存在していたという。その内部は山の東側へと通じており、かつては大和と河内をつなぐトンネルとして利用されていたのではないかと噂する者もある。

 日本人が初めて目にした異国の神、それは金色に輝く菩薩の像であったという。聖徳太子がいた時代、朝鮮半島よりもたらされた新宗教の受容をめぐって朝廷を二分する争いが起きた。蘇我氏と物部氏による崇仏廃仏戦争である。この時、河内を拠点に大きな勢力を維持していた物部氏は、自らの居城に立てこもり、齢十六の聖徳太子を大将とする蘇我軍を迎え撃った。物部軍は、地の利を活かして健闘し、蘇我軍を三度撃退したといわれている。
背水の陣で臨んだ四度目の合戦、軍配は蘇我軍に上がった。木の上より弓の名手、迹見赤檮によって放たれた一本の矢が勝敗を決した。その矢が、見事に敵将物部守屋の急所を射抜いたのである。
 K村のあたりには蘇我軍の陣が張られた。西方眼下、河内平野に配された物部軍の陣地が一望できたためだ。仏教に深く帰依する聖徳太子は、山の木で四天王の像を刻み必勝を祈念した。この加護によって蘇我軍は勝利をおさめ、感謝のあかしとして四天王寺が建立されたことは広く知られている。しかし、守屋の命を奪った一本の矢にまつわる因縁を知る人はほとんどいない。
 ある日、陣中にあって山の頂に昇る朝日を合掌礼拝していた聖徳太子のそばに一人の老女が現れた。その手には、一本の矢が握られている。老女は「これ仏敵調伏の霊矢なり」と告げるとその矢を太子に授けて立ち去ったのだ。不思議に思った太子は、すぐ臣下を呼び老女の後を追うように命じた。
 しばらくした後、臣下が戻り来て言うのには、とても老いているとは思えない速さで急な坂を登り、山の中腹にある岩窟の中に姿を消した、とのことだった。

 その夜、太子の夢枕に立った老女は「われ弁才天の化身なり」と告げた。これが、村の鎮守である塚穴を「弁天さん」と呼ぶようになった由縁である。以来、太子自作の両手に弓矢を持つ異形の弁才天像が塚穴の奥に安置されるようになったという。春日山岩倉神社という神道式の名称が付けられ、祭神が定められたのは、明治政府の廃仏毀釈によるもので、長きにわたる神仏習合の時代には「弁天さん」が村の守り神だったのだ。

 今、鮮明によみがえる幼い日の記憶。忘れもしない、とても寒い夜だった。悪い夢にうなされて目を覚ました私は、ふと枕元の時計を見た。蛍光塗料で黄色く光る針が、午前一時をすこし回っていた。廊下を出て便所へと向かう最中、玄関の戸がパタリと閉まるのを聞いた。不審に思い、戸の覗き窓に目を凝らすと、夜の闇に遠のく白装束の二人の背中が見える。私は、すぐにその二つの白い影が両親だと分かった。

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