小説

『日出ずる村の記』虫丸尚(『聖徳太子伝記』)

 南北に連なる山々は、古代より大和と河内の国境(くにざかい)だった。今でも地図を広げると、縦走する尾根筋に県境を示す破線が引かれている。この山の西麓には、長い年月を経て一種の扇状地がいくつも形成された。そのゆるやかに拓けた地形の上に、いつの頃からか人々が生活を営むようになり、数千年後の子孫らも代々伝えられてきた山や畑を守りながら暮らしている。
 私も、彼らに連なる一人として、K村のとある旧家に生を享けた。なんでも、先祖は勾玉作りをもって大和朝廷に仕えた豪族の一人だったそうだ。しかし、それを無条件に信じる者は、今となっては誰もいない。きっと曾祖父ぐらいがでっち上げた作り話だろうというのが我が家の通説となっている。祖父亡き後、家宝として父が継承した家系図は、しみひとつない真っ白の紙に黒々とした墨で記されていた。筆跡もすべて同じ。誰が見ても、祖父のしわざであることは明らかだった。ほら吹きオヤジの壮大な嘘を真に受けた祖父が、大金を出して系図屋に作らせたのだろう。桐箱に納められ金襴緞子で表装された巻物が放つ輝きほど、空虚なものはない。
 村とはいっても、大阪ミナミの繁華街まで電車で二十分。兼業農家がほとんどで、平日の昼間は閑散としている。働き盛りの男性は、みんな都会に出て会社勤めをしているのだ。毎日畑に出て農作業に精を出すのは、その親たちの世代である。おかげで食卓には鮮度抜群の野菜が並ぶ。日常の生活に不便を感じることはない。むしろ、この付近に宅地を求めて都会の富裕層が移り住むこともしばしばである。

 祖父がまだ元気だった頃、私は何度か山に入ったことがある。その目的は、我が家が所有する山林の場所を父や私に伝えるためだった。祖父に連れられて、茂みをかき分けながら登ったケモノ道。時折、朽ちた木々の奥に土に埋もれる巨石が見えた。
 実は、この山一帯には古墳時代に築かれた石組の墳墓群がいくつも存在するのだ。村の人たちは、これを塚(つか)穴(あな)と呼ぶ。棺を納めるために大きな石を積み上げて石室を作り、その入り口はすべて南側を向いて開かれていた。江戸時代に起こった盗掘ブームによって、死者とともに埋葬された鏡や勾玉などの装飾類はほとんど持ち去られ残っていない。入り口は人ひとり通るのがやっとという狭さだが、石室の内部は三畳くらいの広さがあり、天井石までは大人が手を伸ばしても届かぬほど高かった。
 中は夏でもひんやりとして、石に触れると冷たい。それでいてどこかしっとりとしていた。

 私たちの祖先は、重機などのない時代にいかにしてこれほど大きな石を、しかも山の斜面に組み上げたのだろう。そもそも、石をどこから切り出して運んだのかさえ分からない。この山地の西側だけでも、一説には三百基近い墳墓があるといわれている。戦前に何度か著名な考古学者が調査を行い、実測図や分布地図などを作成したらしい。
 しかし、この考古学者はひとつ特殊な塚穴の存在を見落としていた。いや、案内人として調査に同行した村人たちが、敢えてその存在を隠したといった方が正しいだろう。

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