小説

『浦島太郎』浴衣なべ(『浦島太郎』)

 彼にも家はあるのだろうし、今後のことを考え、整理するため一度戻ってもらうのはどうでしょうか、と私は女主人に進言した。
「まったくあなたの言う通りです」
 礼節を無視することができない生真面目な女主人は、私の言葉を鵜呑みにした。
「それでは、そのための準備をさっそく始めましょう」
 当初、女主人は彼を送り出すための壮大な式典を準備しようとした。けれど、彼がそれを止めた。
「里帰りするたびにいちいちそんな手間をかけられたら、気軽に帰ることができなくなってしまう」
「そうですね」
 女主人はあっさりと納得した。しかし、その後小さな声で彼には聞こえぬよう、「気軽に帰ってほしくないのです」と頬を膨らませながら呟いた。その微笑ましい光景を見て、私の心は熱を失い感情が麻痺するくらいに冷えきった。
 出発の日、彼の意向に沿い屋敷のものたちは皆通常通りに働いていて、見送りをするのは女主人だけだった。そして、彼を送り届けるのはもちろん私の勤めだった。
「道中お気をつけて」
「すぐに帰って来る」
 ただの里帰りであるためか、二人の間に交わされた言葉はとても簡単なものだった。たとえば、これが今生の別れだったとするならば、もっと違う形になっていたのかもしれない。
「ああ、忘れていました」
 女主人は一つの箱を取り出した。それは波の模様を蒔絵で見事に表現した黒い漆器で、赤い薪紐で蓋を固く結ばれていた。昨日、女主人の指示で私が準備しておいたものだ。
「これは玉手箱と呼ばれるものです」
 箱の中身は簡易性の狼煙になっているので、要件を終えたら蓋を開けてください。そうすれば、使いのものがあなたを迎えに行くでしょう。
 という説明を女主人はした。事実、私は女主人から箱の中身をそのように詰めておくよう言われていた。
 彼は玉手箱を受け取ると生みたての卵でも扱うように大事そうに懐へ納め、この屋敷にやってきたときと同じように私の体を力強く握った。久しぶりに感じた彼の体温。それは温かいというよりは柔らかく優しかった。彼に触れられているというだけで、脆くなった私の心に生気が注ぎ込まれるような気がした。この気持ちさえあればどのような理不尽な仕打ちにも耐えていけると思えた。
「では、行ってくる。すぐに戻って来るからな」
「はい、お待ちしております」

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