小説

『浦島太郎』浴衣なべ(『浦島太郎』)

「これから気をつけろよ」
 子供たちを見送ったあと、彼は私に声をかけてくれた。彼の起こした空気の波が私の鼓膜を震わせ、その振動が脳細胞を心地よく刺激していく。彼に声をかけられただけで得ることのできる昂揚感の大きさに、私は非常に戸惑った。
「じゃあな」
 彼は向きを変えこの場から立ち去ろうとした。戸惑っている場合ではない、このチャンスを活かさなければ。
 助けてくれてありがとう、あなたにお礼がしたい。
 私は彼にその意思を伝えた。
「えっ」
 初め、私からそのような提案を受けたことに彼はとても訝しんでいた。
 私達にはあなたに感謝の気持ちを伝え、そして、おもてなしをすることができるのです。
 私は身振り手振りでそのことを彼に一生懸命伝えた。やがて誠意が伝わったのか、半信半疑だった彼は私の提案を受け入れてくれた。
「とりあえずどうすればいい?」
 ご案内するので私にしっかりとつかまっていてください、と私は説明した。すると彼はその言葉通り力強く私の体を握った。手の甲には血管が浮き出ており、彼に頼られているような気がしてどうしようもなく嬉しかった。
 道中、彼は物珍しそうに辺りを見渡していた。海水の中で屈折する太陽の光、海流に身を任せ独創的な動きをする海藻、重力の影響を忘れ奇抜な彩りを施された軟体類。私には見慣れた風景だったが、彼の反応を見てその美しさを再認識することができた。
「あれはなんだ?」
 彼が縞々状の荒縄のような物体に手を伸ばそうとした。
 触ってはいけません!
 自分でも驚くくらいの大声で彼を止めた。彼が触れようとしていのは、強力な毒を有するウミヘビだった。この辺に住むものだったら、絶対に自ら触れようとはしない。改めて彼がこことは違う地域の住人であるのだと思った。
「けっこう時間がかかったな」
 目的地までたどり着くと、彼は私に触れていた手を放した。さっきまで感じていた人肌の温かさを失い、言い知れぬ寂しさを感じた。
「少し、緊張するな」
 彼の言葉に、私は一瞬自分の耳を疑った。胸を張り背筋を伸ばした彼の佇まいはとても堂々としたもので、民衆に支持される指導者のような貫禄があった。どうして緊張しているのか、彼に尋ねてみた。
「だってそうだろう。こんな立派な建物に入ったことなんてなかったからな」
 高く積み上げられた石垣、馬車ですら悠々とくぐられる大きな門、朱色が綺麗に映える漆喰の壁、手入れの行き届いた広大な庭、美しい金細工の施された隅木。これらが彼に精神的な圧迫を与えているとは予想外だった。もしよろしければ質素な造りの裏口へ案内いたしましょうか、と彼に言ってみた。
「はっはっは。面白いことを言うな。いや、大丈夫だよ。今の言葉で緊張がほぐれたから」

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