小説

『空の箱』湊杏(『浦島太郎』)

 目の前で起こった手品かまじないに思わず後ずさるが、乙姫はすぐに距離をつめてそれを手渡した。
「絶対あけてはなりませんよ」
 おきまりのセリフに、乙姫はにっこりと微笑んだ。ずっしりと箱が重く感じる。
「その玉手箱には、願いをかなえる力があるんです」
「願い?」
 乙姫はゆっくりとうなづいた。
「ええ、願えば億万長者にだって、不死者にだってなれます。死んだものだって取り戻せる」
「そんなバカな…」
 苦笑した自分に、乙姫は首を横にふった。
「いいえ、私は知っていたんです。地上と海底の人間には、寿命のズレがある。私の方が太郎より長く生きるって…それが、本当は時間のズレってことは、今日知りましたが」
 浦島太郎は海底で3年間を過ごした、しかし地上に戻れば700年も時が経っていた。確かに、時間の流れだけでみれば、海底の方が寿命が長いのだろう。
「私はね、彼に私との永遠を願ってほしかったんです…だけど彼が願ったのは、自らが失った時を取り戻したいという…。私との時間を否定したものでした」
 玉手箱を見つめ、乙姫は悲しげに微笑んだ。
「じゃぁ、最初からそういえば、だいたい何であけるななんて…」
「玉手箱は真の願いしかかなえてくれない。そして作った私自身は使えない。きっと絶対にあけるなと言えば、本当に願いをかなえたいと求めたときに、そうしてくれると…思ったんです。でも…私は、無意味に彼を苦しめただけで…」
 ぼろりと涙を流しながら、それでも彼女は微笑んだ。
「乙姫さん…」
「やだ…本当に、声まで似てるのね」
 くすくすと笑う乙姫だが、拭っても拭っても、涙だけは止まってくれはしなかった。
「今日は、本当にありがとう。太郎が死んだこともわかって、なんだかすっきりしたわ。ずっと思い詰めていたのが阿呆らしい」
 海に向かって、乙姫は歩みだした。彼女の体はすでに膝まで海水に浸かってしまっている。
 とっさに海に入り、彼女の腕を掴めば、乙姫はびっくりしたような顔でこちらに向き直った。
「僕、虎太郎っていうんです。太郎さんはもういないですけど…僕だったらいつでもここにいますから」
 また来てください。そんな言葉はでてきてはくれなかった。それでも乙姫は沈黙の後にただ微笑をたたえる。
「ええ、わかりました。そうだわ、その玉手箱はアナタに、虎太郎様に差し上げます。いらなければ海にでも沈めてください」
 彼女がつぶやくように言えば、普段より強い風が海へ吹いた。思わず目をつむれば、手のひらから彼女の感覚が消えていくことがわかった。
目をつむっていたのはほんの一瞬だったのに、風は止み、海は凪ぎ、乙姫の姿はなくなっていた。
 狐につままれたようでも、しっかり片手には玉手箱が抱えられている。
 今なら遠い祖先。太郎の気持ちがよくわかる。
 彼は乙姫との時間を否定したわけではない。彼女とすごした日々のたったひとつの思い出が、彼の手にはあったのだ。それに縋りたいと思うのは必然ではないか。例え願いは別にあったとしても。
 そしてそれは自分も同じ。だけど、彼女とのたった一つの接点をためらいなくあけてみても、中にはなにも入っていない。

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