小説

『空の箱』湊杏(『浦島太郎』)

「なんだよ」
 最初に沈黙に耐えられなくなったのはこちらの方で、視線もあわせぬまま尋ねると、乙姫からばさりと、布が落ちた。それが服だと気が付いたのは、彼女が全裸だというこという事実に気が付くよりも遅かった。
 なにが起こったかわからず、金魚のように口をぱくぱくさせていると、乙姫はにっこりと微笑んだ。
「お願いがあるんです」

 夕方にもなると、潮風が冷たかった。
「うふふ、無理を言って申し訳ないわ」
「いえ…」
 青のカーディガンにカーキ色のパンツ。髪をポニーテールに変えた乙姫は、どっからどう見ても現代っ子のように、自分の隣を歩いていた。
「本当にこんなことでいいんですか?」
「ええ、私ずっとこうしてみたかったの」
 服を脱いだ乙姫は、自分に現代の服を与えるように言った。妹に服一式と、着替えを頼めば、二つ返事で、コーディネートに着手してくれた。
 部屋へ呼び寄せた際、裸の乙姫と、真っ赤な自分を見て、「ムッツリ」とにらまれたのが納得いかないが。さすが現役の女子高生。服を着こなす乙姫は、女優のように綺麗だった。
「これがおもてなしか」
「地上の服を着て、好きな人と歩く…もっとも、好きな人の忘れ形見ですけど」
 未だに、コレが乙姫だとは信じがたいし、狂言だと思うが、美人と歩くだけなら、「太郎」も役得な気がしてきた。
「はぁあ、でもそうか、太郎様は死んでしまったのね」
 夕日をまぶしそうに見つめ、乙姫は大きく伸びをした。
「道理で、いつまで経っても帰ってきてくれないわけだ」
 乙姫は涙を拭い、こちらに向かって微笑んだ。
「でも。あなたは本当に太郎様に似てる。こうしていると、太郎と話しているようだわ。まぁ、背はアナタの方が高いけど」
 頬にそっとふれ、乙姫はただ魅惑的に口元をほころばす、ただ見とれてることしかできず、その手が放れた瞬間に、赤くした顔をそらした。
 この美しい人は、本当に乙姫様なのかもしれない。根拠はないし、信じ難い、おとぎ話なんて存在しない。頭ではそう考えていても、心が現実を疑い始めていた。
「あの…」
「なに?」
 ただ声をかけただけで、なにを話していいかわからない。さんざん迷ったあげく、頭に浮かんだのは、幼い日のある疑問だった。
「どうして、太郎に玉手箱を渡したんですか」
 亀を助けた見返りが、老人になってしまうことだなんて、子供ながらに不思議で理不尽で仕方がなかった。よく、妹とその謎をときあかそうと夜遅くまで討論したものだ。
乙姫はきょとんとした顔の後で、くすりと微笑を漏らした。全く、どんな笑顔でも似合う人だ。
「あはは…そうよね、あの絵巻を見る限りじゃ…不思議に思うのも無理はないわ」
 乙姫は、しゃがみこむと、海に手を浸した。波が三回ほど寄せて返したところで、たちあがれば、その手には、りっぱな箱があった。
 黒い漆塗りで、表面には金箔でつるやら亀が描かれている。大層立派な箱。
「玉手箱…っ」

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