小説

『幻肢譚』生沼資康(『雨月物語 – 夢応の鯉魚』)

 最近よく夢を見る。それも同種類の夢だ。

 それはいつも、夢の中にもかかわらず爽やかな目覚めから始まる。真っ暗で昼か夜かわからない闇の中での目覚めだ。しかしながらこの夢の中での目覚めは、それはそれは現実世界での自分では想像のつかないほど新鮮でいて、なんといえばよいのか、記憶にはないが生まれた直後があったとしたらこのような感覚なのかもしれない、そういった類の生命的な目覚めだった。

 そんな素敵な目覚めの後に夢の中の私は洞窟を出て、木々を抜けて水辺に向かう。そして山の中腹にある凡そ足元二十センチほどをゆく清流の中へ入っていき、夢の私は手を伸ばし、弧を描いてはまた戻す。そんなことを延々と繰り返す。冷たい水の感触が手足の感覚をなくしていくけれども、何かしらよしと思うまでここを動いてはならない気持ちになっている。おそらくその一連の動作は魚を得んがための動作なのだ。魚ははっきり見えているが、あまりに水が澄んでいるせいで魚も私を見つめ返している。山女魚は笑う。およそ水中二十センチしかない制約の中で、三次元の檻を打ち破らんほどの自由さで私を翻弄する。手足がいつしか寒さで動かなくなる。それでもやはり釣果はなし。

 途方に暮れるうちにふと気づけば夕刻になっており、木々を橙色に染め上げる柔らかな光に山が包まれている。再び水底に目をやればその鈍い光の反射角の悪戯か、前かがみになって手足を水底につけ這いつくばって魚を探す私の姿が鮮明に映し出される。その鏡を見たとき、鮮明なる自分の鏡像を見たとも見てないとも言い切れぬうちに目を焼くような眩しさのために目を閉じてしまうのだが、その瞬間尻に激痛が走るのだ。

 なんの不思議もない、抑揚のない、そしてとりとめもない散文的な夢だ。しかし私は何も延々と夢について語りたいわけではない。核心部分は目覚めた後にある。夢での尻の激痛を、目覚めた後の私もまた丁寧に引き継ぐのだ。つまり、この夢を見て起きるたびに尾骶骨の辺りに激痛が走る。それも毎回必ずだ。これはもう骨の部分をペンチで直接掴んでねじ上げたような痛みだ。ひねり上げた骨が砕けないように割れないように、細心の注意を払ってゆっくりと綿密に且つ躊躇なくねじりあげられているように思えた。この痛みを人為的に操っている何かがいるのだとしたならば、それは相当性格がねじ曲がった奴に相違ない。そして尚悪いことに、次は首が痛くなるのだ。喉仏のあたりから首周り全体が痛くなって、次第に頭が熱くなってくる。

 突然眠りを妨げられて、私は跳ねる。シーツと蒲団を巻き込んで床に落ち、散乱していた本や菓子の袋にまみれて転げまわる。その間に、ベッドの壁や箪笥に体のどこかしらを激しくぶつけているようで、嵐の後に頭にこぶや腕に青痣ができているのを発見するがそのときはそれどころではなく、ただ転げまわってまた跳ねる。でも不思議なことに、ものの10分ぐらいで痛みは消えるのだ。そして、その後に痛みのあった骨の部分を触っても何の傷も見当たらない。もちろん首も頭もなんともない。叩いてみても痛みは走らず、いつもどおり。この痛みすらまるで夢のようにパッと消えてしまうのだ。

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