小説

『御心ざしのほどは見ゆべし』安間けい(『竹取物語』)

「しかも『だからお前の名前はジローなんだよ』ってもっともらしく言いやがって。そのとき飼っていた犬の名前がタロだったんだけどさ。」
 芙美はそこまで言われると少し可笑しくなった。
「それでそのときは信じた?」
「そりゃあ、信じたよ。妙にリアルなんだもん。」
「悩まなかった?」
 うーん、とジローは考えた。今度は目をつむり、腕を組んで10歳のころを思い出しているようだった。ジローの後ろには橋の欄干があり、その後ろには川の水が流れているのが見えた。ジローが考え込んでいる間、今まで聞こえていなかった水の流れるチラチラという音に気が付いた。水無川というこの川には地下に水が多く流れていて、地表に流れる水は比較的少ない。どんなに大雨が降ってもこの川が氾濫したというのは聞いたことがない。
「悩まなかった!」
「親と血がつながっていないと信じたのに?」
 ジローの考え込む姿を見て、なんとなくはその答えを予想していたが聞いてみた。
「そう。だけど俺わりといつもハッピーだったから。まあ、いっかと思ったんじゃないかな。タロだってきっと自分のこと家族だと思ってるし。なんていうか、セロトニンが多いなのかな、あんまり俺悩まないの。」
「セロトニン……」
 ここまで来るとただの能天気な奴だと思っていたジローからセロトニンという脳内神経伝達物質の名前が出てきたことに芙美は驚く。
「幸せホルモンって言われてるらしいけど、ストレスとかに強かったり、気分を安定させてくれたり。俺って嫌なことあってもすぐ忘れるし、楽しいことの方に気分が向くから。俺拾われたんだ、って思ってたんだけど。最近になって、あの兄ちゃんの話おかしくないか?って思って母ちゃんに確認したら大笑いされて、冗談だったってわかったんだよね。」
「幸せホルモン……うらやましい。」
「でしょ。みんなに分けてあげたいよ。」
 本当にハッピーな人間なんだな、と芙美は笑った。もちろんジローもニコニコとしていた。どんな出来事があってもそれなりに幸せを感じ取れる人間がいるのか。
 芙美はリンゴジュースを置いて、欄干にもたれかかる。橋の下に目を落とすと浅い水の中に黒い影が3つ見える。
「こんなところに魚がいる。鯉かな。」
 芙美がつぶやくと、「ほんとだー!」と言ってジローは走って橋を渡りきり、橋の横にある石段を一段ずつ飛ばしてあっという間に河川敷までかけ下りてしまった。ジローのくたびれたブルーのリュックサックはいつ間にか芙美の足元に置き去りにされていた。
 チラチラ動く黒い魚を凝視していると、ドキュメンタリー番組で観た顕微鏡の映像を思い出した。1度に放出される精子は1憶から4億匹。一斉に遡上してもそのうちに卵子の近くまで近づけるのは100匹。卵子と出会って生命の源となるのはたった1匹。顕微鏡の中のオタマジャクシはよく動くものと、動かないものが比較されていた。番組は不妊治療をしている何組かの夫婦の話で、そのうちの何組かは子どもを授かり、何組かは授からないまま治療を終了させていた。1組は養子縁組を検討していた。

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