小説

『御心ざしのほどは見ゆべし』安間けい(『竹取物語』)

 今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。
 野山にまじりて竹を取りつつ、よろづの事につかひけり。
 名をば讃岐の造となむ言ひける。その竹の中に、もとひかるたけなむひとすじありける。あやしがりてよりてみるに、つつのなかひかりたり。
 それをみればさんずんばかりなるひと、いとうつくしうていたり。おきないふやう、う、うーん……。えーと、われ、朝ごと夕ごとにみるたけのなかにおはするにてしりぬ。ぬ、ぬ。うー。
「なんだっけ」
「子になり給ふべき人なめり、だよ」
 眉間にしわを寄せて教科書で確かめる隣のあや。芙美はそちらを見ることもなく答えた竹取物語の冒頭を原文そのまま暗記で書けと言われたのは一昨日の授業でのことだ。
 中間テスト直前のこの時期に、手間のかかるテストをするとは気合いの入った国語教師だと思う。授業の合間の5分休みの時間も必死でかぐや姫の生い立ちを頭に入れるクラスメイトを後目に、芙美はすでに満点を取る自信があった。
 勉学に気合いが入っているわけではなく、自分に起きていることのような気がしたからだ。
物心が付いたときには初めて会う人から必ず「美人ね」と言われ、次に両親と見比べて「あら、似てないのね」と言われた。母と一緒のときは「きっとお父さんに似てるのね」と言われたし、父と一緒のときは「お母さん似なのね」と言われた。随分失礼な言葉だが、相手も言わずにはいられなかったのだろう。芙美にとってはそれが日常だったので、深くは考えていなかった。
 しかし小学校4年の夏休み明けの授業参観で初めてその言葉の意味がわかった。
 母が来ているだろうと振り返って教室の後ろを見て驚いた。そこにはクラスメイトたちにそっくりな顔がいくつもあったのだ。一瞬笑いそうになったが、すぐに問題が深刻であると理解した。自分と両親ほど似ていない親子はいなかったのだ。
 芙美の両親は一重まぶただが芙美ははっきりとした二重だ。母はパーマもかけていないのにくるくるとくせ毛、父の髪の毛はは茶色がかっている。芙美は日本人形のような黒髪ストレートなのだ。手足の長さも、骨格も両親とは別の人種のように違う。「似ていない親子」という言葉では片付かないレベルだ。
「ねえねえ、ふみちゃんのお母さん、来てる?」
 後ろの席の友達から言われて身体が強張る。
 芙美が視線を動かすと、扉の近くから人懐こい笑みを浮かべて背の低い母が手を振った。
 その年から芙美は家で探し物をしている。最初のうちは行き当たりばったりに探していたが、なかなか見つからない上、父母が不在のときを狙って限られた時間内で元通りにしておくためにもっと計画的に実行することにした。部屋の見取り図をつくり、1回の捜索に1か所と決めた。携帯で写真を撮っておき、片づけるときはその画像を見て父母に気付かれないように用心した。
 そもそも芙美は真面目で神経質な方だ。完璧主義で気難しいところがある。授業のノートも細かく丁寧にとる。鞄の中も教科書やノート、文房具の定位置が決まっている。それなのに父はおおらかでお人好し、母に至っては大雑把でだらしがない。

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