小説

『永遠回帰』北山初雪(『人魚姫』)

 いつからかはよく覚えていないけれど、岬に絵を描きにくる女の子がいる。
 毎日というわけではなくて、大抵来るのは天気が良くて、暑すぎず寒すぎず気候が良い日だけ。
彼女は真っ白な貝のような肌をしていて、風が吹いたらすぐにでも倒れそうなぐらい華奢で、それなのに絵を描いている時だけは生き生きして、きらきらした目になる。
 あんまりよく見かけるので、挨拶ぐらいはした方が良いかなと思って手を振ってみても、全く気づかない。こっちはこんなに見ているのに、彼女は絵を描くだけ。あそこから見えるものなんて、海と空ぐらいしかないから、毎回同じものを描いていても飽きないのだろうか。
 いつも波と一緒に揺れながら、僕はそんなことを考える。
 試しに目の前を泳いでみても、見向きもしなかった。これみよがしに尾びれを見せつけてもだ。これは無視という嫌がらせで、僕は弄ばれているのかもしれない。それとも、もしかして人魚っていうのは人間の中でもメジャーだから驚きもしないのだろうか。もう今ぐらいはカモメと同じぐらいの扱いなのかもしれない。
 そんな不安と苛立ちを覚えて、僕はおばあちゃんに頼んで一日だけ人間の姿になることができる薬をもらった。この薬は副作用があって、飲んだ翌日は死んだように眠り続けてしまうし、目が覚めてからも体調を崩すことが多いので、みんなあまり飲まない。僕もこれまで数十回ぐらい飲んだけれど、やっぱり泳ぐ方が楽だし、歩くのはちょっと怖い。ふらふらしてしまって、初めは何度もこけて痛い目にあった。まあ、今はそれなりに人間らしく振舞えるけれども。
 天気予報をばっちりチェックして彼女が来るという確信を持ってから、僕は薬を飲んだ。人間の服は集会所にまとめて置いてあるので、自分の体形にあったものを選んで、それを持って岬に向かった。薬が効くのは飲んでから三十分後。それまでに陸に上がらないと息ができなくなる。
「今日なら来るだろうな」
 魚の体がゆっくりと足になっていくのを見ながら、僕は彼女が来るのを今か今かと待っている。大体、これで彼女が来なかったらとんだ無駄足だ。腹が立つので、一度海に引きずり込んでやろう。
「さて、最初はなんて話しかけるかな」
 そんなことを考えていると、
「きゃあああああ!」
 かわいらしい悲鳴が聞こえてきたので振り向くと、あの女の子がいた。それも顔を真っ赤にして。
 予定通りではなかったけれど、彼女が現れたので良しとしよう。ええっと、まずは何て話しかけるかな。そうだ、自己紹介だ。
 何とか尾びれも足に変化したので追いかけようとして、自分が何も着ていないことに気づいた。
「しまった」 
 だから彼女は悲鳴を上げたのだ。今の僕は足があるのだから、何も履いていないとただの変質者だ。これじゃあ捕まっちゃうよ。
 急いで服を着て追いかけると、彼女は絵の具を急いで片づけていた。
「ごめん。もう服は着たから大丈夫だよ」
「近づくな! 変態!」
「ごめんごめん。そんなに怒らなくても」
 彼女の腕を掴んだ途端、いきなり頬が熱くなった。
「私に触るな!」
 頬を叩かれたと気づいたのは、彼女の背がだいぶ遠くなってからだった。

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