小説

『ガラスの靴を、シンデレラに』山本康仁(『シンデレラ』)

 正直アキエは状況を把握していなかっただろう。一緒に暮らすことを提案するサトルに、アキエは「迷惑かけるからいい」と拒み、そのすぐ後には「お世話になるわね」と同意した。放っておけばその会話を終わりなく繰り返しただろう。引っ越し当日もアキエは案の定、引っ越すとは思っていなかった。「いいから車に乗って」と半ば強引に連れ出すサトルに、「旅行なんて何年ぶりかしら」とアキエは笑っていた。「そうですね」なんて上手な嘘がつけないチカ子は、相づちを打つように作り笑いを返すことしかできなかった。
 アキエが住み始めて一ヶ月が経った頃だろうか。チカ子がキッチンのテーブルで本を読んでいると、ばたっとドアの閉まる音がした。ぱた、ぱた、と廊下を叩くスリッパの音が響く。ドアが開いてアキエがキッチンに顔を出した。
「ねえ、チカ子さん。ちょっとお話があるんだけど」
 そう言ってアキエはチカ子の向かいに座る。ここ一週間近く着続けて、襟元が黄ばんでいるよそ行きのブラウスがチカ子は気になった。洗濯するから出して欲しいと言っても、アキエは自分で洗うからいいと拒むのだった。
「何か飲みますか。お茶とか、それともコーヒーとか」
「ううん、そうじゃなくてね」
 アキエは「ありがとう」と微笑みながら続ける。チカ子も上げかけた腰を戻してアキエに向かい合った。
「そろそろ家に帰ろうと思うのよ」
 何と答えて良いか分からなくて、チカ子はアキエの次の言葉を待った。
「ほら、ここ狭いし。私がいると迷惑でしょう」
「お義母さん。お義母さんはここで一緒に住むことになったんです」
 アキエはチカ子をじっと見つめている。
「お義母さんもそれでいいって、お世話になるわねって」
「じゃあ、あの家はどうしたのよ!」
 突然のアキエの口調に、チカ子の作りかけの笑顔が引いていく。
「あの家、あなたが売ったんじゃないでしょうね」
 家は残してあった。売るなんて言ってアキエが許すはずない。サトルの意見にチカ子もきっとそうだろうと思った。それにアキラが帰国したら住むかもしれない。そうなったらアキエはまたそっちに戻って一緒に暮らせばいい。サトルはそう自分の考えを続けた。
「売ってません。売るわけないでしょう」
 チカ子はコップを手に取った。中が空なのを見ると、立ち上がってコーヒーを淹れた。落ち着かなければいけない。そう言い聞かせた。
「じゃあどうして私は家に帰れないの? 家に帰らしてくれたっていいじゃない」
「それは・・・」
 どこまで本当のことを言って良いのかチカ子は分からなかった。アキエが自分の症状を自覚しているとは思えない。伝えても、素直に受け入れるとも思えなかった。アキエの自尊心を傷つけることにもなるだろう。
「こんな狭い家に閉じ込めて」
 溜まっていたものを吐き出すようにアキエは続ける。
「狭い部屋に粗末なベッド。小さな家具に小さな窓」
 アキエに準備したのは昔ミキが使っていた部屋だった。万が一にと残していた机や本棚、壁に掛けた賞状など、全てを片付けてアキエ用に整えたのだ。チカ子は戸惑った。ショックと同時に悔しさも込み上げてきた。

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