小説

『芋虫から生まれた少女』志田健治(『桃太郎』)

 菅原は大人テントに戻っていない。寝袋を取りに戻った気配はなかったので、最初から寝袋を持って行ったということになる。侑は感心した。「もし葉流が夜泣きしたら、子どもテントで一緒に寝てあげよう」という心の準備があったということだ。どんなに酔っていても父親とは偉大なものだ。
「ちゃんと待っててね」琉音は女子トイレに入る。
 侑はそれほどでもなかったが、自分もついでに用を足しに男子トイレに入る。
 戻ると琉音がいる。
「待っててって言ったのに!」と声を荒げる。
「ごめんごめん。早かったね」
 琉音は急に走る。「危ないよ」と背中を追う。暗くて足元がおぼつかない。それが琉音は楽しいようで、深夜に関わらず奇声を上げる。
 侑は子どもテントまで少女を送る。
「目さめちゃったよ」息を切らせながら琉音は言う。「ねえ、大人テントに行ってもいい? お父さん寝てるから狭くてさ」
「ああ、別にいいよ」
「やった!」と琉音はポーズを決めて、「寝袋取ってくる」と言ってテントの中に突入する。「ねえ、パパ、大人テントで寝てくる」と言っているのが聞こえる。パパは良いとも悪いともとれない唸り声を出す。やがて琉音は寝袋を持って出てくる。
「よし! 行こう!」琉音はまたポーズを決める。

 大人テントの中では武井の水笛のような寝息が、アボリジニの楽器ディジュリドゥの如く重低音を響かせている。ランタンを一番小さく絞り、テントの中に黄色い影を落とす。
 侑は再び頭まで寝袋に入り、傍らには小さな芋虫がいる。
「ねえ、目さめちゃった」と芋虫は言う。
 確かに侑も目が覚めた。もう一杯酒を飲んでもいいかな、という気分だ。だができることならホットウイスキーを飲みたい。しかし湯を沸かすのはご免だ。
「ねえ、何かする?」琉音が言う。
「何かするって、寒いし、暗いよ」
「でもさー、眠れないもん」
「うーん、じゃあ怖い話しよっか」だが、怖い話のレパートリーなど侑は持っていない。
「やだ!」琉音は短く切る。
 怖い話は苦手なのだろうか。「幽霊の声」が得意なわけだし、小さい子は多少なりとも怖い話は好きなはずだ。本当に怖かった時のダメージは大きいが、彼らは進んで痛みを受けようとする。
 侑は武井のディジュリドゥを真似て、腹の底から不気味な低音を絞り出す。
「ゆんゆんゆんゆんゆんゆんゆんゆんゆん……」
「やだ! やだ! やだ! やだ!」琉音が叫ぶ。芋虫はローリング運動を開始して、全身で「やだ!」を訴える。そのパフォーマンスに鬼気迫るものを感じたので侑は「ゆんゆん」をやめる。しかし武井のディジュリドゥは止まらない。琉音は武井の元までローリングして、思い切り体当たりする。
「うっ」と唸って、武井は静かになる。

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