小説

『芋虫から生まれた少女』志田健治(『桃太郎』)

 寝袋に入ったまま琉音(ルネ)は近づいてきた。満面の笑みで芋虫のように、伸びたり縮んだりする姿がとても滑稽だった。自分の突飛な行動が目の前の大人にどう映っているか、それを想像するだけで流音は楽しいようだった。事実、侑(ユウ)は笑っていた。流音が髪を振り乱しながら、もんどり打って近づいて来る。「幽霊の声」と称する光線銃のような奇声を発したかと思えば、ひまわりのように無垢で爛漫な笑顔を撒き散らす。最高のコメディエンヌは世界に自分ひとりだと信じて疑わない少女が、この狭いテントの中にいる。
 一体どこまで近づくつもりだろう? この胸に飛び込むつもりだろうか。そうなったら、次に大人はどうすれば良いのだろう。勢いよく抱き上げて、テントをぶっ潰す勢いでジャイアントスイングを決めてやれば良いのだろうか。それとも寝袋の上から猛烈にくすぐってやれば子どもというのは喜ぶのだろうか。
 今まさに、このあまりにもひょうきんな少女は、世にも不思議な幽霊の声を発しながら、侑との距離をじりじりと縮めた。

 琉音は九歳だった。父親の菅原健に「キャンプに行きませんか」と誘われたのは一年前。それから二度キャンプに同行し、今回が三度目だった。季節は春。梅雨に入る直前でまだ肌寒かった。土と緑のため息が、そのまま湿った空気となる。そんな五月のある週末だった。
 メンバーは初回の時から変わらない。菅原と娘の琉音。その妹の三歳になる葉流(ハル)。菅原の友人で年長者の武井年男。その息子の龍一。そして侑だ。
 菅原は店の客だった。侑が任せられているショットバーで出会った。バーのオーナーは自由人で、店の売り上げは好きにして良い。そのかわり給料は出さない。全部売り上げでやりくりしてくれ。要は「赤字になったら自腹を切れ」、ということだ。侑はそのやり方が気に入って二年の約束でバーテンダーをしている。元々酒は好きだった。当時勤めていた仕事を辞める良いきっかけになった。
 菅原は初めて会ったとき、相当に酔っぱらっていた。地下にあるバーの店内を物珍しげに物色して、侑の顔を見てはへらへらと笑った。たちの悪い客だと思ったが、ハイボールを一杯飲んだらすぐに帰った。次に来店した時は開口一番で謝った。「謝る必要はない」と言葉を返すと、自分は相当に酔っていたので失礼なことを言ったのではないか、と更に平伏した。言っても、言っても謝り続けるので、侑は少々苛ついた。だが菅原は今回も相当に酔っているだけだった。今度はハイボール二杯飲んで帰った。
 三度目には武井を連れてきた。武井は菅原より一回り年上だが、子どもが小学校の同級生ということでとても親しげだった。そのとき武井は酔っていなかったが、結果、もの凄い大酒飲みだった。酒の棚を右から左まで全部ショットで飲んだ。それでもけろっとしていた。
 二人とも気の良い常連になった。それぞれ単体で来る事もあったが、町内会の催しの後は必ず二人で来た。喪服で来る事も何度かあった。町内で訃報があれば出席しなければいけないそうだ。都会でもそのような習慣が残っているのだな、と感心したのを覚えている。葬式帰りの彼らはよく飲んだ。そして必ず香典返しを二個くれた。

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