小説

『雪女』宮本康世(『雪女』)

 すると彼女は口を開いた。
「このうちの人?」
 その声に、リンリンと鳴る鈴が頭をよぎった。そして、何故だか、彼女も僕を知っていると感じた。
「孫だけど」
「そう、正平さんのお孫さんなの」
 いとも容易く祖父の名前を口にし、彼女はまた僕を見つめた。それは、値踏みでもするかのように遠慮のない視線だった。
 僕は、自分と歳の変わらないような女が祖父の名前を軽々と言う奇妙さに絡めとられていた。
 足が固まっていくのを感じ、ここで凍えるまで彼女と対峙し続けるのだろうか、と思いはじめたとき、彼女はゆっくりと近づいてきた。
 2人のあいだを絶え間なく大粒の雪が舞い落ちていき、彼女の黒いまつ毛が白く染まっていくのが見えた。
 そこで立ち止まると、おもむろに何かを包んだ袱紗をポケットから取り出し、僕にさし出した。
「お祖父さんにこれを渡してください」
 人が変わったように、しおらしくそう言うと、もう僕を忘れたかのように一本道へと向かって歩きはじめた。
 その袱紗は、手触りから手紙のようなものが包まれているようだった。
 彼女の雪を踏む音はあっという間に消え、本当に行ってしまったのか不安だったが、僕は振り向かず、固まってしまったような足を力強く踏み出して、門の中に入った。
 翌日、病院へいくと、祖父はやはり目を瞑ったままだったが、幾分顔色が良い気がした。 
 僕は袱紗を開けないまま、祖父の枕元に置き、静かに病室を出た。
 そして、それからしばらくして、祖父は目を覚まし、みるみるうちに元気なっていった。 
 脳溢血の後遺症で左手が少し不自由になったが、あとは全てが元に戻ったようだった。
 祖父と僕は、あの晩のことを口にすることはなかった。
 袱紗のことも、誰も知らないようで、祖父も僕に聞くことはなかった。僕はそれでいいと思った。
 それからしばらくして、思いがけない話を聞くことになった。 
 見舞いにきてくれた近所のじいさんのところへ礼に行ったとき、祖父が若い頃、駆け落ちした話を聞かされた。
 祖父は、東京から来た年上の女と恋に落ちたが、家族に反対されたのだという。そして吹雪の晩に2人は出て行ったが、翌朝、祖父だけが凍傷寸前で見つかった。それ以降、祖父はその女のことは口にしなかったという。
 そのじいさんは、話の最後に「きれいなひとだったが、この町には合わんかった」と言った。

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