小説

『月とかぐや姫』夢野寧子(『竹取物語』)

 かぐやの目の端から一滴の涙が零れ落ちたのと、電車が動き出したのはほぼ同時だった。ゆっくりと走り始めた電車は、しだいにスピードを上げていく。窓ガラスの向こうの色とりどりの夜景が赤から黄へ、黄から青へ変化していく。電車が大きく揺れて、ドアに片手をつくと、自分の顔が目の前に現れた。夜の闇のせいで鏡のようになったガラスに自分の顔が映ったのだ。まばたきをすると、ガラスに映った自分も同じようにまばたきをした。聞いたばかりの言葉が、頭の中に浮かんで、消えた。
 誰かを本気に好きになったことがないのだとわたしを責めたかぐや。なら、かぐやは誰かに恋い焦がれたことがあったのだろうか。他校の王子様でさえ手の届かない存在のかぐや姫。あまりにもあなたが愛しげに月を見上げるものだから、どこか手の届かない遠くの国へと旅立って、わたしのことを忘れてしまうのではないかと不安だった。けれど、忘れてしまったのは、いや、気づいていなかったのはわたしのほうだったのだ。
 夏目漱石の話を教えてくれたのは、国語の教師だった。同じ授業を聞いていたかぐやがあの話を知らないわけがなかった。丸い月を見上げながら、かぐやは綺麗だと言った。誰にも言えない思いをそっと唇にのせるように。
 電車の中だからまずいとわかっているのに、再び目の前が滲んだ。悲しいのか、嬉しいのか、苦しいのか、申し訳ないのか、自分の感情を見極めることができなかった。愛の言葉を残してかぐや姫が去ってしまったのは、わたしが同じ言葉を返せないのを知っていたからだろうか。
 忘れてしまっていいとかぐやは言った。それでも、わたしは月が綺麗だと笑ったあの時のかぐやを忘れることはできないだろう。あの日と違って、今夜は月のない夜だった。滲んだ視界の向こうで、闇夜を照らすような街の灯りの眩しさに、わたしは瞼をおろし、そっと息を吐き出した。

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