小説

『ピーターパンの夢』松宮ミハル(『ピーターパン』)

 もう少しだったのに。ピーターはハンモックに寝そべって顔をしかめる。今回こそは上手くいきそうだった。あの少年なら自分の望みを叶えてくれるとそう思ったのに。
 やはり人魚の入江に連れて行かなかったことがまずかったのだろうか。しかしあそこで行くことはできなかった。人魚の入江は周りを崖と海に囲まれている。ここからでは空を飛んでいかねば辿り着けない。しかしそこで飛ぶ力を無駄に使うことはできなかった。ウェンディに会いに行くその時の分を確実に取って置かねば。
 長いことこの島を出ることを願ううち、ピーター自身の身にも少しずつ変化が起きていた。ピーターは徐々に空を飛べなくなっていったのだ。以前よりそのスピードも距離も失われ、今では彼の空中遊泳は見て取れるほどに頼りなく危なげだった。
 ああ、きっともうすぐこの力を失ってしまう。ピーターにはその確信があった。いくら妖精の粉を振りかけてもその効果は瞬間で薄れていく。
 だからこそ今回の少年に賭けていたのに。
 きっともうチャンスは何度も残されていない。
 ピーターは溜息を吐いた。
 その絶望的な考えを振り払うようにピーターはハンモックを軽く揺らしながらいつものように彼女を想う。
 逃げた影を追いかけたその先で彼女に出会った。迷い込んだその大きな家の子ども部屋。弟たちを優しく見守る彼女に出会ったのだ。
 さあおいで、と彼女の兄弟も一緒になって夢の楽園ネバーランドへ彼女を誘った。彼女と手を取り合って夜空を泳いだその時間がいかに美しく素晴らしかったことか。風は彼らを清々しく包み込み星々は美しく瞬き、雲は夜空を駆けるその速さを競う仲間のように優しかった。全てが彼に味方したようなどこまでも自由な瞬間。
 彼は彼女へ告げた。
 「ここで僕と一緒に暮らせばいい。ずっとずっと大人になんかならないで」
 しかし彼女は帰ってしまった。こことは時間の流れが違うその場所へ。時が人を変貌させるその場所へ帰って行ってしまった。
 ああ、それなら僕自身がここを捨てていかねばならない。彼女に再び会うためには自分がここを離れなければ。なぜなら彼女こそが運命の相手なのだから。
 しかし永遠の時が流れるその島を去ることは容易ではないのだ。それこそがピーターパンがピーターパンたる所以だった。大人にならない彼がそこにいることで、大人にならない少年がそこに在ることでネバーランドというその島の秩序が保たれている。
 少年の未来を、少年の成長という名の時間を糧に島は息づいている。根付いている。
 それから幾度も様々な子どもたちがここへ来た。それはもう男の子も女の子も。彼の相棒小さな妖精が呆れて金の粉を振り乱すほどに様々な子どもたちを呼んだけれど誰も彼の望みを叶えてはくれなかった。
 ピーターパンになることを望むこと。
 誰かが本気でそう望んでくれれば彼は本当の意味でここから抜け出せる。
 あの金色の笛を取り、継承することがその証になるのだ。継承者が現れないままにピーターがネバーランドを抜け出し戻らなければあっという間にピーターの残りの時間は食い尽くされ彼は死んでしまうだろう。
 継承者が現れたならば、きっと。
時の流れる、時が人を変貌させる国へ降りて行って今度こそウェンディにこう告げよう。
 「ここで僕と一緒に暮らそう。一緒に年を重ねよう」
 その願いを叶えるために彼は今日も街へ降りていく。小さな金色に羽ばたく相棒を連れて飛んでいく。
 恐らくこれが最後のチャンス。今度こそは叶えてやる。
 そして出会った子どもに精一杯のポーズと笑顔でこう告げる。
 「僕はピーターパン、永遠の子どもさ。これって素敵じゃないかい?」
 さあ、成り代わりたいと願え。
 

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