小説

『ピーターパンの夢』松宮ミハル(『ピーターパン』)

 彼はそわそわと落ち着きなく立っていた。ズボンのポケットに両手を突っ込み、洒落たスーツに身を包んでいる。グレーのジャケットにさりげないチェック柄が入ったそろいのズボン、ネクタイにタイピンがきらりと光る。彼が目線をやった左腕の銀腕時計が陽ざしを反射した。
 「ピーター!ピーター!」
 喜びがはちきれんばかりのその声に彼は振り向いた。相手を認めるとその表情が浮き立つ。
 彼の名を呼んだその相手がパッと駆け寄って彼の首っ玉に腕をまわし笑い声をあげた。
 「ごめんなさい、待った?」
 彼は彼女の腰に腕をまわし抱きしめるように受け止めながらいたずらっぽい笑みを浮かべる。
 「ああ、待ちくたびれちゃったよ」
 彼の言い草に彼女はうふふと心底くすぐったそうに軽やかな笑い声を立てた。
 「ウェンディ!ああ君って人は本当にいつも僕を翻弄するんだから」
 今度は彼女が彼の腕の中でいたずらっぽい笑みを浮かべている。
 出会った時と同じような薄布の青いワンピースを纏った彼女はこれ以上ないくらいに美しかった。午後の柔らかな日差しを受けてまるで彼女自身が輝いているようだ。
 「私たち本当に結婚するのね!これからずっと一緒にいられるなんて、ああ夢みたい!ピーター、私夢を見ている気分よ!」
 二人は手を取って花畑の中を駆けていく。

 ハッと目が覚めた。慌てて飛び起きるとそこは見慣れたハンモックの上だ。つまりは自分の根城である。その事実を認めた彼はふうっと長い溜息を吐いて再度ハンモックに深く身を沈めた。そしてきつく目を閉じる。
 夢、だったのか。
 先ほど見ていた鮮明な映像が掻き消えて行ってしまうことを恐れるように頭の中で何度も反芻する。
 あの洒落たスーツを着ていたのは僕だ。大人になった僕自身だ。
そして薄布の青いワンピースを着た彼女。ウェンディ。
 その名を心の中で呟くだけで胸の奥のどこかが鈍く痛む。彼はまたふっと溜息を吐いた。
 あの陽ざしの下の彼女がどれほど美しかったことか。まるでスミレの花のように軽やかで自然でそして伸び伸びとした健全な美しさ。さっきまでは確かにこの腕の中に抱きしめていたのに。その綿布のような柔らかさをまだこの腕が覚えている。
 あれは結婚を誓い合った二人の幸せな一場面だったのだ。彼女も僕も幸せでたまらないと。
 あまりにも甘いその夢が憎らしい。
 彼女はもうここにはいない。かつて彼女と共に空を飛びここへ誘ったのはいつのことだろう。つい昨日のことのような気もするが遥か彼方の出来事のようにも思える。時の感覚が上手く掴めない。それでもただ彼女の夢を見る。眠りの中で会いたいのはたった一人、彼女だけだ。
 夢の中の僕は完ぺきだった。
 洒落たスーツ、髪型も決まっていた。光を反射する銀時計、タイピン。しかし目を覚ました僕自身といえば全身を若草色に包み、ハンモックに揺られている。こんな細い腕では彼女を抱きとめることなど叶わない。胸に光るのはタイピンではなく金色の笛だ。

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