小説

『猫島』龍淵灯(宮古島『マムヤ伝説』)

 振り返ると、黒猫をまとわりつかせた少女が、悄然と立っていた。
 氷の棒を飲まされたように、身体が凍りつく。少女は裸足で、滑らかにすり寄り、ほのかに両手を差し伸ばした。ふわりと、甘い草の香りがした。
 もはや声も出せず、正気の限界を感じたときだった。
少女のつぶやきが聞こえた。消え入りそうな声で、それはきっと昔の宮古島の言葉で、理解はできなかったけれども、流れこんでくる感情は明確に判った。
 さびしい。
 わたしに優しくして。
 わたしと、一緒にいて。
 恐怖の奥底に押しこめられていた思いが、音叉のように共鳴した。
 この誰も知らない世界で、少女とともにいてもいい。街に帰って待っているのは、孤独で虚しい日々でしかない。
 少女の手を取ろうと、腕をゆるりと持ち上げた。
 指と指が、のろのろと近づいていく。
 下地の家での、宴会。
 空にそびえる、白雲の城。
 エメラルドの粒を飛ばす、小舟。
 生きてこその喜び、そして捨てられる痛み。
「ごめんなさい……!」
 がくりと膝をついた。あふれる涙が、頬をつたって地面に吸いこまれていく。
 そのとき、ばしっと何かがはまる音がした。顔を上げると、少女も黒猫も消えていた。空は透き通るように青く、海は清浄な輝きを取り戻していた。

 ほのかは、下地の船に乗り、猫島を見送っていた。平べったい島が、少しずつ遠ざかっていく。空は茜色に染まっているが、あの崖から見た世界とは違う。ほのかの知っている夕日だった。
「面白かったか?」
「うん……」
 ほのかは曖昧に答えた。元気のないほのかを見た下地は、咳払いをひとつすると、歌い始める。

ぼらぴゃうなまむや あらんまりみやらび
ぬのぐすくぬあず さきやまのぼう

 宴会のときに聞いた歌だった。物悲しげな歌だとは思っていたが、初めて聞いたときよりも、なぜか胸が切なく締めつけられる。
「おじさん、その歌は?」
「まむやぬあやぐ」
 下地は照れくさそうに頬を掻いた。
「どういう意味?」
「あやぐは歌という意味だ。男に捨てられて崖から身を投げた、マムヤって娘のな」
 ほのかは、あの岩の船着場に何かが立っていることに気づいた。辛子色の琉装をした人影が、ほのかを見つめていた。
 ほのかはカメラを取り出した。小さくなった人影をとらえ、幾度となくシャッターを押した。
 カメラから眼を外すと、船着場には誰もいなかった。切り取った一瞬のどこかに、あの少女がいるような気がした。
「ひとりじゃ、ないよ」

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