小説

『猫島』龍淵灯(宮古島『マムヤ伝説』)

 びくりと肩が震える。鳥居の奥の闇で、緑色の光がふたつ、妖しく光っていた。
 あの黒猫だった。
 もう一度、鳴いた。赤い口の中が、ひどく鮮やかに見えた。
 身をひるがえし、黒猫は奥へと入っていく。そして、ほっそりとしたふくらはぎにまとわりついた。
 誰の――?
 心臓が、ぎゅっと縮む。見てはいけない、見たくないと思っているのに、視線が、黒猫から上へ移動していく。
 丈の短い、辛子の地に錆色の太い縦縞の入った、浴衣のような服。へその上で巻いた、細い帯。頭頂に髪を束ねた、見なれない髪型。
 目鼻立ちのくっきりした、琉装の少女が、影の中に立っていた。
「ひっ……!」
 吸った息が吐けない。ここは無人島ではなかったのか。なぜ少女は、ここにいるのか。この少女は、普段から琉装なのか。思考が沸騰する。
 少女がいきなりひざまずいた。
 顔に両手を当て、巨岩を震わせる勢いで叫んだ。
脚から感覚がなくなっていた。一歩も動けなかった。
 少女の叫びは、号泣しているようにも、哄笑しているようにも聞こえた。
――狂っているのか。
そんな思いが頭をかすめたが、たちまち恐慌があふれだす。
 少女が、短い言葉を繰り返す。誰かの名前のようにも、祈りを唱えているようにも聞こえた。
泣きながら、崩れた声で何かを言っている。日本語とは思えなかったが、その言葉から嘆きと恨みが圧倒的な質量でぶつかってきた。
 脚に神経が戻ってきたことに気づく。慌てて少女に背を向け、走りだした。
 スニーカーが地面を噛んでくれずに転ぶ。四つんばいになって、さとうきび畑の中にもぐりこむ。少女の嘆きが、真後ろにいるかのように響く。
 さとうきびをつかんで立ち上がり、めちゃくちゃにかき分けていく。
 いくら漕いでも、さとうきび畑が終わらない。茎で傷ついた手から、出血していることに構う余裕はなかった。
 果てしないと思えたさとうきび畑を抜け、道路に出た。走る。どちらが商店街か、判断する必要はなかった。
 荒海のように騒ぎたてる思考の中に、不意に鮮明な画像が割りこんできた。
 髭の生えた、精悍な中年の男。わたしの村を治める、役人。
 一度も会ったことのないこの男に、甘い胸の痺れを感じていた。
 このひとは、奥さんと息子がいる。だけどわたしを、好きだと言ってくれた。
 まるでほのか自身がそう思っているかのように、頭の中に言葉が湧いてくる。
――あの子だ。
 わたしもこのひとが好きだった。わたしの初めては、ぜんぶこのひとのものになった。
 覆いかぶさる優しげな髭面(ひげづら)を、下から見上げていた。
 なのに、あのひとは言った。美しい妾(めかけ)より、息子のいる妻の方が大事だ。
――あたしと同じだ。
 音がするほどの鋭い痛みが、幻影に亀裂を入れる。
 風景が変わった。崖の上から、はるかな水平線を眺めている。ゆっくりと、断崖へ近づいていく。
――やめて!
 やがて、足の下から踏むべき大地が消えた。空がすさまじい速さで遠ざかっていく。海が空に、空が海になる。
 加速する風景が切断され、何も見えなくなった。
 ほのかはまばたきを繰り返し、眼をこする。視界が戻り、たどりついた場所を知ったとき、叫ぶことさえできなかった。
 一度も来たことはないのに、知っている。
 たった今幻視した、少女のいた最後の場所、あの断崖だった。
 空が赤い。慌てて時計を見る。正午前で、止まっている。夕日の時間ではない。エメラルドのような海が、一面に赤黒く染まっていた。
 赤ん坊が泣いた。

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