小説

『猫島』龍淵灯(宮古島『マムヤ伝説』)

ツギクルバナー

「僕にはやっぱり、妻と娘を裏切ることはできない」
 馴染みのホテルの一室。照明は最低限に絞られて、薄暗い。ベッドに腰掛け、背中を向けたたままで、有村(ありむら)ほのかの上司は呟いた。
 ほのかはまだ熱の残る裸体を、頭までシーツで覆い、身じろぎもしない。
 覚悟はしていた。最近の上司の、ほのかと一緒にいるときの物憂げな様子から、この結末を予期しないほど鈍くも幼くもなかった。
「別れよう」
 ほのかの意志を確認もしない、有無を言わせない決意が声に満ちていた。
 布の擦れる音、ベルトのバックルが鳴る音。静かに歩く音、ドアを閉める音。
訪れる、耳鳴りがするほどの沈黙。
 修羅場にもならず、この不義の恋が終わったことは、あるいは幸せだったのかもしれない。諦めにも似た感情が、じわりとにじんでくる。
 心が、汚水を含んだ雑巾のようだった。
大きくため息をつく。よろよろとベッドから降り、服を身につける。ブラウスのボタンが、なかなかはまらない。
苛立ちながら指を動かしていると、涙が落ちた。
 重い足取りで、二度と来ることはないホテルをあとにする。
外に出ると、すでに冬の気配を感じる風が、冷たく肌を刺してきた。そろそろコートを着なくてはと思う。短大のときに母に買ってもらったものを、もう五年も使っている。
日はすでにとっぷりと暮れていた。タクシーを拾い、築三十年の木造アパートへと帰る。小さな文房具メーカーの事務員の収入にはふさわしいが、同世代の女が好んで住みたがる部屋とは言えなかった。
殺風景な六畳間に、ハンドバッグを放り出す。
 こんな人生。
捨て鉢な苛立ちとともに、涙が溜まる。
 袖で涙を拭き、タンス代わりに積み上げたカラーボックスから、安物のデジタルカメラを取り出す。
 裏庭側の窓を開けると、風が吹きこんで淀んだ空気が払われていく。眼の前にコスモスが、街灯の光を浴びて可憐な花を揺らしていた。
 フラッシュをオフにし、ファインダーを覗きこんで、シャッターに置いた指に力をこめる。カシャッと電子音。何度も繰り返す。
 二十枚も撮って、写真を確認する。青白い光に浮かぶコスモスの、切り取られた時間が納められていた。いつのまにか、涙は乾いていた。
 過去も未来もない、完結した一瞬。それを決めるのは自分。
カメラが好きだった。ほのかの人生で、唯一自分の思い通りになるのはシャッターを押すタイミングだけだった。
無味乾燥なコール音が、突然鳴り出す。ハンドバッグの中から聞こえていた。気分が落ち着いてきたのをかき乱されて、腹立たしくスマホを取り出す。
郷里の母からだった。
「なあに?」
「ずいぶんご機嫌斜めじゃないの。テレビ見てる? 東北に猫の島があるらしいのよ」
 機嫌が悪いのを判っていながら、そのことをまったく気にせずに自分の好きなことだけ話す。いつもの母で、今日の話題は猫だった。
「知らないわよ、そんなの」
 母のおしゃべりにつきあう寛容さも今日はなく、声が尖る。
「そういえば、多良間(たらま)の下地(しもじ)おじさんも近くに猫だけの島があるって言ってたのよ。自分で船を持ってる人しか行けない、本当に猫しかいない無人島ですって」
「無人島なの?」
 関心を引かれたのは猫よりも、人間がいないというところだった。
「そうなのよ。誰もいない南の島にあたしと猫だけ。パラダイスね」
 多良間島は那覇から飛行機で宮古島に飛び、そこからさらに飛行機か、一日一便の船しか行く手段のない島だった。
 遠くに行きたい。傷つけるひとが、誰もいないところに行きたい。
 虚しさの沼から、衝動がつきあげた。
「ねえ、下地おじさんの電話番号、わかる?」
 口が、考える前に動いていた。

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