小説

『わらしの思い出』岡田千明(『座敷童子』)

「浩哉さん。」
妻の声で現実に引き戻された。遠い記憶の彼方。でも、これは僕の記憶ではない。
「ここ、いいわ。ここにしましょうよ。」
妻の明るい言葉にただ頷いた。後ろで松崎さんがまたくしゃくしゃな顔をしている。
この家はきっと僕たち家族を優しくくるんでくれる、そんな予感がした。きっと、雪降る夜も、凍てつく朝も、この家だったら心に暖かい灯をくべてくれるに違いない。そして、この場所で染め上げる布は、どんなにか清らかな柔らかい色に仕上がるだろう。僕の答えはすでに、この家の扉を開けた時に決まっていた。ただ気になるのは、この得体の知れぬ、ぬくもりの正体だった。

 その夜、久しぶりに母に電話をした。両親は兄夫婦と一緒に東京の外れに暮らしていて、都心にある今の僕の家からは1時間足らずで着く。それなのに、というかそれだからか、よく考えたら今年の正月以降電話もしていない。霜月にはいったので丸一年経とうとしている。盆も仕事が忙しく、妻だけはあいさつに行ったものの、自分はやり過ごしてしまった事に気づき、少し気が咎めた。今回の物件訪問も、僕が突然思い立ったので、母には何も話していなかった。

「母さん、久しぶり。突然ごめんね。」
「あら、あら。どうしたの。」
「実は、今日、恵美と一緒に母さんの実家の村に行ったんだ。」
「まあ~…。あらそう、恵美さん具合はどう?なんでまた。」
「ああ、恵美はつわりもほとんどなくて、変わらずだよ。まあ、なんとなく、ね。また今度話すよ。ところで、母さんの実家って、どうなってるの?」
「ええっと…。だいぶ前に売りに出されたわよ。私と姉さんがお嫁に行った後に、お父さん、あんたのおじいちゃんがすぐ亡くなっちゃって。お母さんは姉さんのとこに引っ越しちゃったしね。遠いし、それから帰ってないから今はねえ、わからないわ。」
「そうなんだ。」
「もう昔の話よ。あの辺にまだ家なんて残ってるのかしら。」
「ぽつぽつあったよ。なんでも、田舎ブームでさ。需要はあるらしい。」
「もの好きな人もいるのねぇ。まあ、当時もたまぁに観光客はきてたけどねえ。」
「観光って何か名所でもあるの?」
「民俗研究の世界ではね、なかなか有名よ。田舎の口伝えの話がね、興味のある人には興味があったみたいでね。」
「ああ、河童とか、天狗とかそういう話?」
「そう、伝説、っていうのかしら。」
「そういえば、あのあたりを舞台にした、物語集みたいのあったね。口承の伝説をまとめた本。」
「でしょ。小学校の授業で、母さんたちは習うのよ。地元のことだから。」
「フィクションでしょ。」
「とはいうものの、やっぱり実際見たとか聞いたって人はごろごろいたわよ。母さんの子供のころは、村のおじいちゃんおばあちゃん達がこぞって話してくれたもの。」
「ふうん。」
「お父さんも、そんなような話をしてくれたことがあったっけ。」
「じいちゃんが?」
「そう。自分の家には座敷童子が住んでいて、家を守ってくれていたって。10歳くらいの可愛い女の子だったって言ってたわ。嘘かほんとか知らないわ。ただへぇ~って聞いていただけだったけどね。」
「女の子?座敷童子って、家が栄えるっていう、あの…。」
「そうよ。お父さんの家はね、お父さんが子供のころはそんなに裕福じゃなかったらしいの。でも、その座敷童子と出逢ったくらいから、少しづつ暮らしが楽になったって言ってたわ。あんたのひいおじいちゃんが織物業か何かで成功したみたい。お父さんは、座敷童子のおかげなんだって、よく飲むと嬉しそうに話してたわよ。」
「母さんは会ったことないの?」
「私はね~、残念ながらそういう霊感?みたいのは全くなし。姉さんもそんな繊細なたちじゃなかったしねぇ。」
「母さん。実家の住所、教えてもらっていいかな。」
「あら~…。思い出せるかしら…。」
 案外すんなりと母の口から出てきた住所は、あの家の住所と同じだった。驚きはしなかった。むしろ、自分があの家を選んだことに合点がいった。

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