小説

『わらしの思い出』岡田千明(『座敷童子』)

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「わらちゃんは、ずっと僕のお家にすんでいるの?」
「違うわ。先だって移り住んだばかりよ。前のところが居心地悪くなっちゃったの…。」
「前はどこにいたの?」
「ふたつ隣の村の、山口さん家。」
「どうして嫌になったの?」
「ちょっと前にきた長男のお嫁さんがね、強欲でわがままなの。いつもぶつくさ文句ばっかり。すごくいい家だったのに。そういう人がいると、息苦しくなっちゃうの。」
「そう、かわいそうだね。」
「でも、慣れてるわ。そういうものなの。私はそうやって暮らしているの。誰にも知られないようになるべくひっそりと。」
「ふうん、そっか。寂しくはない?」
「寂しくないわ。心のきれいな人がいるお家は、最高に暖かいの。そういう家族を見ているのが、私にとって一番満たされる幸せなのよ。」
「ここは?僕の家はいいところ?」
「とても落ち着くわ。」
「なら、ずっといたらいいよ。」
「…ありがとう。でも。」

 濃い暗緑の山をいくつも越えて、やっと若草色の平地が見えてきた。そこに、まばらに建つ民家が白や茶や朱色の点をつくる。人影は見えないが、牛が何頭かゆらゆらと長い尾を揺らしているのが見える。車を降りると、焼畑の煙の香りが漂ってきた。
「この辺りは、空き家が多いですよ。まあ、最近は、田舎暮らしなんてのが流行って、都会から移り住んでくる人も増えてますがね。それでもお客さんみたいなお若いご夫婦は珍しいですわ。また、どうしてこんなとこへいらっしゃったんですか。」
案内をお願いした地元の不動産会社の松崎さんは、深く皺が刻み込まれた人のいい顔を、さらにくしゃくしゃにしてほほ笑んだ。
「はぁ、僕の仕事の関係でして。」
「お仕事と?」
ぼそぼそと答える僕に、元気に反応してくれる。
「布の染色をやっておりまして。主に草木染めなんですが。仕事に没頭できる環境を探しているんです。それで、ここは母の故郷でして。なんとなく、じゃあ、行ってみるかという次第で。」
 本格的に草木染めを始めたのは、芸術大学に通っていた時代からだ。ここ数年、やっと個展を開催できるだけの力が付き、人脈を築けたことでわずかながら贔屓のお客さんが出来た。
「そうでしたか。それはそれは。では、こちらに来たことはございますのか。」
「いえ、僕が生まれた時には祖父も祖母ももういなかったものですから。今回が初めてなんです。」
「そうですか。なーんもないでしょう。ここらは。」
 松崎さんは、なかなかいい年のようなのだが、足腰がしっかりしていて、ずんずんと先を歩いて行く。“なーんもない”場所で、こうして着実に人生を重ねてこられた強さを感じて、僕はなんだか羨ましくなった。
「ですが…とてもいいところです。」
「私も、そう思います。」
 妻の恵美も、隣で控えめにほほ笑んだ。地方の農家出身の彼女は、こういった場所にも抵抗がない。むしろ、落ち着いて染めものが出来るところに引っ越したいと、わがままを承知で言った時、東京よりも子供を育てるのにいい環境かもしれないと前向きだった。妊娠して4カ月目になる。
「そう言っていただければ、何よりです。さて、こちらです。おすすめの物件になりますが。」
 一面に広がる田んぼのあぜ道を抜け、少し坂をあがったあたり、茂る巨木に隠れるようにその家はあった。平屋建ての一軒家。外壁は橙が入ったようなクリーム色で、きちんと塗り直されているようだ。松崎さんが鍵をとり出す。鍵も鍵穴も小さい。表の戸は木製の格子にガラスが嵌め込まれた古いものだったが、横に引くとからりからりと滑らかに開いた。
まず目に飛び込んできたのが、2畳ほどありそうな広い玄関。すぐ正面に、こぢんまりとした幅の狭い階段がある。その横にすっと一直線に廊下が伸びている。廊下の一番奥には窓があるらしく、床板が午後の陽ざしで白く輝いていた。

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